●「憐れみ深いイエス」と「怒れるイエス」の対立

 

マルコ1:40-45 <らい病人の癒し> 並行マタイ8:1-4、ルカ5:12-16

 

40そして彼のもとに一人の癩病人が来る。彼に頼んで、膝まづき、言う、「もしもお望みなら、あなたは私をきよめることがおできになります」。41彼は怒って、手をのばしてその男にさわり、言う、「望む。清められよ」。42そしてすぐに、癩はその男を離れ、その男は清められた。43そしてその男をきつく叱りとばし、すぐに追い出した。44そしてその男に言う、「見よ、誰にも何も言うな。行って、自分を祭司に見せ、自分の清めについてモーセが定めたものを供えなさい。彼らに対する証のために」。45その男は出て行って、大いに宣べ伝え、言葉を広めはじめた。そこで彼はおおっぴらに町の中にはいることができなくなり、外の寂しいところにとどまることとなった。そしてあらゆるところから彼のもとに人がやって来るのであった。(田川訳)

   

40 また,ひとりのらい病人が彼のもとに来て,ひざまでついて懇願し,「あなたは,ただそうお望みになるだけで,私を清くすることがおできになります」と言った。41 そこで[イエス]は哀れに思い,手を伸ばして彼に触り,「わたしはそう望みます。清くなりなさい」と言われた。42 すると,すぐにらい病は消え,彼は清くなったのである。43 さらに[イエス]は厳重な命令を与えて直ちに彼を去らせ,44 「だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って自分を祭司に見せ,自分の清めのために,モーセの指示したものをささげなさい。彼らへの証しのためです」と言われた。45 しかし去って行ってから,男はそのことを大いにふれ告げ,事の次第を広め始めた。そのため[イエス]は,もはや表だっては都市に入ることができず,外の寂しい場所にとどまっておられた。それでも,人々が四方から絶えず彼のところにやって来るのであった。(NWT)

 

NWTに限らず、多くの聖書が1:41を「憐れんで」と訳している。だがこの個所は、異文があり、読みが分かれている。原文が、splangnistheis(憐れんで)、とするものと、orgistheis(怒って)とするものがあり、現存するほとんどすべてのギリシャ語写本が、splangnistheis(憐れんで)の読みとなっている。orgistheis(怒って)とするものは、「ベザ写本」(D)と古ラテン語写本の西方系写本だけである。「ベザ写本」(D)は、5世紀のもので、福音書と使徒行伝のみで構成されている。ギリシャ語とラテン語対訳になっており、「怒って」という読みが、ギリシャ語とラテン語の双方に存在しているということは、少なくてもその底本はヒエロニムスの時代まで、つまり2世紀まで遡れる。

最重要大文字写本であるシナイ写本(א)とバチカン写本(B)は共に4世紀のものである。どちらも一致してsplangnistheis(憐れんで)という読みを採用している。

 

「憐れんで」と「怒って」の読みのどちらを採用するか、と今日のクリスチャンに尋ねたら、JWに限らずほぼすべての人が「憐れんで」という読みが本文にちがいないと思うことであろう。内容的にも、この哀れならい病人に対して、望むだけでよい、と言っているのに、わざわざその手に触れて、癒しているという、イエスの愛情の深さを示している話として有名である。このsplangnistheis(憐れんで)という語の原義も、「内臓の痛みを指す」語であるとの註解や「断腸の思い」を抱くほどイエスは憐れみ深い方である、との註解に信仰や感謝の念を厚くする話である。

古代ギリシャやローマの思想では、人間の感情は特定の内臓が担当している、とされていた。例えば、心臓は感情の場所であり、横隔膜は心臓に近いから、心情や配慮の場所であるとされていた。

この動詞は、「内臓」(splanchna)という名詞を動詞にしたものである。この名詞は、心臓や肺、肝臓等などの特定の臓器ではなく、内臓全体を指す言い方である。内臓ではあるが、腸ではない。従って、この動詞は特定の感情を指しているのではなく、さまざまな感情に広くあてはめられる。多くは、怒り、心配、愛情等々。「断腸の思い」の故事由来はともかく、新約でこの語は一貫して「憐れんで」と訳されている。

 

イエスが「怒った」とする方は、意味がわからない。写本家のミスであろう思うのが普通であろう。しかし、splangnistheis(憐れんで)とorgistheis(怒って)では、スペルも発音も意味も全く違う。単なる混同によるミスとは考えにくい。

並行記述のマタイとルカにもイエスの憐れみが強調されているに違いない、と思うことであろう。実際に調べてみると、マタイ8:1-4もルカ5:12-16も、病人の嘆願からイエスの返事まで、ほとんど一字一句、マルコ1:40-41をそのまま取り入れている。それにもかかわらず、マタイもルカも、問題のこの個所の言葉だけないのである。

マタイとルカのこの記述は、Q資料によるものではなく、並行記述があるから「マルコ」を資料として、書いているのは明らかである。(マタイ、ルカの福音書編集方針については別の機会に)もし、マルコに「憐れんで」とあったとすれば、なぜマタイとルカがそろって削除しているのか、その理由が全く分からない。マルコの原文に、「怒って」とあったから、マタイとルカはその意味がわからず、あるいは、意図的に削除した、というのなら話はわかる。

つまりマルコの原文は「怒って」となっていた可能性が非常に高いのである。それなら、マルコ1:43に「きつく叱りとばし」(田川訳)、「厳重な命令を与えて」(NWT)と話が続いて行くのが理解できる。イエスが「憐れんで」いたのに「きつく叱ったり」、「厳重な命令を与えられ」る、では意味が通じないように思われる。

もっともWTは、メシアの秘密であるから、つまり復活までは弟子以外には秘義であるから、誰にも話してはならぬと堅く口止めしていた、と解釈している。しかし、イエスがメシアであるというのはそもそも秘儀などではなく、イエス自身の発言によるものではなく、弟子たちのメシア信仰から生まれた教理であることを確認した。(マルコ8:27-33参照)

「きつく叱りとばし」(embrimaomai)の原義は「鼻を鳴らして言う」。つまり、きつくものを言う場合に、鼻息を荒くして言う様を表現した語。厳粛な命令を与えるという「威厳」のニュアンスはなく、「怒り」がその中には込められている。誰かに鼻息を荒してものを言われたら、自分が何か悪いことをした、その人から叱られたと思うのが普通であろう。

 

そしてマルコのイエスが怒るのはここだけではない。そしてマタイとルカは同じようにマルコのイエスの「怒り」を改変している。

マルコ3:1-6の「安息日の治癒行為」、並行マタイ12:9-14、ルカ6:6-11比較してみると良い。マルコ3:5では、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)にいた人々が、イエスが手の萎えた男を癒すかどうかを見守っていると、イエスは「怒りをもって」(田川訳)、「憤りを抱いて」(NWT)彼らを見まわす。マタイとルカには、マルコのイエスが示した、彼らに対する「怒り」がきれいに無くなっている。

 

マルコ10:13-16の「子供受け入れる」、並行マタイ19:13-15、ルカ18:15-17でも同じである。マルコのイエスは、人々がイエスのもとに自分の子どもを祝福してもらおうと近づけた時に、それを妨げようとした弟子たちに「憤り、彼らを叱りつける」(田川訳)、「憤然として彼らに言う」(NWT)。しかしマタイとルカではイエスの「怒り」は消え、単に「叱りつけた」(田川訳)、「たしなめた」(NWT)だけになっている。

 

つまり、マタイとルカはイエスを憐れみ深く描くことについては、何のためらいもないが、イエスの怒りについては、極力描かないようにしている。マタイとルカはマルコとQ資料をもとに福音書を描いているが、資料としたマルコにイエスの「怒り」が描かれている場合には、削除しているのである。

   

このイエスの「怒り」を理解する鍵は、その前の文にある。マルコ1:40「もしもお望みなら、あなたはわたしを清めることがおできになります」(田川訳)。

単に「お願いですから、私を清めて下さい」と言っているわけではない。あなたはその気になれば私を清める能力をお持ちなのですから、果たしてその気になって下さいますでしょうか」という趣旨である。

それをイエス・キリスト信仰を前提にこの句を読むから、理解できなくなるのである。繰り返すが、イエスは自分をキリストであるとかユダヤ教で信じられていたメシアであるとかは思っていない。ただ自分には病気を癒す力や悪霊を追い出す力が備わっていたことは疑いなく信じていたのであろう。当時病気も天候も空気の流れ、霊の作用と信じられていた。イエス自身がある種のカリスマ性をもって、ある種の病気の治癒や悪霊祓い、「霊」の幾らかを支配できる能力を神から与えられており、使命感を持って活動していたものと思われる。イエスは自分で確信しているこの治癒能力に疑念を抱くことや、もってまわった言い方をして近づいて来る人が嫌いのようである。(マルコ9:22-23参照)

 

イエスにはむろん彼を癒す意志もあるし、能力もあると信じていた。それにもかかわらず、もし「お望みならば」とyouメッセージに近づいてきたことに「怒り」を憶えたのではなかろうか。癒して欲しいなら、癒して欲しいと、素直に近づいてくればよいのに、もし癒せなかったら、それはあなたの責任である、と言わんばかりに、「お望みでしたら」と見せかけの謙遜さで近づいてくるその性根に対しての「怒り」であったように思われる。(もっとも私自身がその種の共依存関係が嫌いなのであるが・・・(W))

 

それゆえ、癒した後、すぐに彼を「追い出した」(田川訳)のであろうか。NWTは、穏やかに「去らせた」としているが・・・。

 

「怒って」に関する解釈に関しては他にもいくつかあるが、もしもマタイとルカがマルコの「らい病人の癒し」の話から「憐れんで」を削除したとしたら、その理由は理解困難である。しかし、「怒って」を削除したのであれば、実に良くわかる話なのである。つまり写本家たちが「憐れんで」を「怒って」にわざわざ書き変える理由はなく、「怒って」とする写本の方が原文である可能性の方がはるかに高い。 

 

   ここでもマルコは、まだイエスを生きた一人の人間としてとらえており、神格化されたキリスト・イエス、つまりメシア=キリストである聖人イエス・キリストとしては描いてはいないことが理解できる。またマタイとルカが福音書を書いた時代のイエスは、神格化が進んでおり、そのキリスト・イエス伝承は、イエスご自身によるものではなく、十二弟子発祥のものであることが想像できる。イエスをキリスト・イエスとし、イエス・キリストと固有名詞化したのは、イエスではなく、弟子たちである。