●イエスはペテロたち十二弟子たちを高く評価していたか?
マルコとヨハネから鍵となる箇所を一つづつ。
マルコ8:27-33は、一般にペテロ告白と第一受難予告と呼ばれる個所ですが、マルコはペテロの「キリスト告白」に対する返答として「受難予告」を設定している。しかも、ペテロ告白に対して、イエスの返答は真っ向から対立している。並行のマタイ・ルカではペテロの「キリスト告白」を高く評価していることになっているが、マルコではペテロたちがユダヤ教的メシア論を展開して、イエスをキリストとレッテル貼りをし、吹聴していることを叱責する場面となっている。
マルコ8:29 原文legei(vi Pres Act 3 Sg)、田川訳「と言っている」、NWT「言います」、新共同訳「言っている」。
イエスがペテロたちに「あなた方はわたしのことを何者だと思っているのか」と彼らの意見を聴いているのではない。ペテロたちがイエスのことを何者だと人々に言っているのか、つまり吹聴しているのか、と尋ねている。マルコのこの文には、ペテロたちの行動に対する拒否反応がある。
NWTが原文の現在形を、「言います」と未完了形の意味で訳しているのは、マタイとルカを読み込み、ペテロの信仰告白の形態にしようとしたいためであろう。
マルコ8:30 原文epetimesen(vi Aor Act 3 Sg)、田川訳「叱りつけた」、NWT「厳重に言い渡された」、新共同訳「戒められた」。
この動詞は本来「(相手が自分に対して)尊敬するようにさせる、一目おかせる」という意味。それが、だんだんと相手を脅しつける意味に用いられることが多くなり、この時代は「罰を科する」という意味に用いられた。マルコはこの語を一貫して「相手を厳しく叱りつける」という意味で用いている。特にイエスを主語とする時には、この個所(30,32,33)でペテロを叱りつける以外では、悪霊を叱りつける場合にしか用いていない。(1:25、3:12、4:39、9:25)
いわば、マルコはペテロたち「直弟子たち」、つまりエルサレム教会の指導者となった者たちを、イエスが厳しく叱った「悪霊」と同一視している事がわかる。
また、「彼のことについて誰にも言うな」(田川訳)「ご自分のことを誰にも告げないように」(NWT)とあるが、これは良く言われるような「キリストの秘密」などではない。
WTに限らず多くのキリスト教は、イエスが「キリスト」であることはまだ秘義であり、復活するまでは誰にも話してはいけない、という意味である、と説かれる。しかし、マルコの文の原文には、どこにも「まだ」とも、「そのこと」(イエスがキリストであるということ)を言うな」とは書いていない。
そのような趣旨で書いているのは、マタイとルカであって、マルコではない。(マタイ16:21、ルカ9:20-22)マルコはそもそもイエスについてそういう議論をするな、と言っているだけである。マタイとルカはマルコの文をそのように書き直したのである。マタイやルカをマルコに読み込んでならない。
WTが真理として教えているように、マタイやルカがマルコより先に書かれたのであれば、イエスをキリストだと告白しているにもかかわらず、後の時代にはイエスはキリストとだとは誰にも言うな、というキリスト教が興隆していったことになる。時代と共にイエスが神格化されていくのではなく、時間の経過と共にイエスが人間的に俗化されていったのが初期キリスト教の歴史ということになる。俗化が神格化されていくことは正常バイアスであるが、信仰の対象となっていくものが、神格化から俗化に発展していくことなどあり得ない話である。
ヨハネ6:66-71 人の子の肉を食べず、血を飲まない限り、あなた方は「自分のうちに命を持てません」とのイエスの言葉に弟子の多くが躓いた。しかし、真の弟子である「十二人」は、イエスのことを真に認識し、ペテロの「あなたが神の聖者です」との言葉に同意し、イエスの追随者としてとどまった、と解される箇所です。
JWが、どんなに人に躓いても組織を離れてはいけない、という時に利用する話の一つです。
ヨハネ6:69 原文ho hagios tou theou、田川訳「神の聖者」、NWT「神の聖なる方」、新共同訳「神の聖者」。
この「神の聖者」という言い方は、新約中で、この個所とマルコ1:24に出てくるだけである。
ヨハネ6:70 田川訳「そしてあなた方の中から一人が悪魔となっている」。NWT「それでも、あなた方のうちの一人は中傷する者です」。新共同訳「ところが、その中の一人は悪魔だ」。
NWT、新共同訳とも、原文の順節の接続詞kai=andを、逆接の接続詞として訳している。
ヨハネ6:71 田川訳「十二人の一人」、NWT「十二人の一人でありながら」、新共同訳「十二人の一人でありながら」
原文には、NWT・新共同訳「でありながら」に相当する接続詞はない。
マルコ1:24では、「神の聖者」という呼称は、イエスによって追い出されることになる「汚れた霊」が叫んだ言葉となっている。いわば、ペテロを悪霊と対比させている。
ヨハネのこの場面では、ペテロが「悪魔」と呼ばれているのではなく、ユダが呼ばれているだけであるが、ペテロの発言「神の聖者」と続くイエスの「悪魔」発言は密接に結びついている。マルコ8:29‐33では、イエスの事を「あなたはキリストです」と誇らしげに宣言したペテロに対してイエスは、「引っ込んでいろ、サタンよ」と叱りつけられている。
つまり、ヨハネはペテロに対して極めて辛辣な皮肉を書いているということになる。マルコ8:33でペテロが「サタン、悪魔」と呼ばれたのを知っている。それでペテロさんたちがご自慢している信仰告白の場面で、サタンの子分である悪霊(汚れた霊)が言ったことをペテロの口に置いてやろうか。ペテロは「悪魔」ではないかもしれないが、「十二人」の一人は悪魔ではないか、と指摘しているのである。はっきり悪魔的行為をしたのは「ユダ」一人であるかもしれないが、ペテロをはじめとする「十二人」も本質的には同じようなものではないか、と指摘しているのである。
ヨハネのイエスはこの場面で、ペテロの発言を誉めるようなことは一切していない。ペテロの発言を全く無視するかのように、「十二人を選んだのは私ではなかったのか。そしてあなた方の中から一人が悪魔となっている」(イエスから選ばれたと主張しているくせに、裏切り者め)と批判しているのである。ペテロが「神の聖者」と信じ、認識もしたことを、これこそ信仰の正しい態度です、と積極的に評価することは、この個所でも、これ以後にも一切していないのである。
ヨハネ福音書の著者は自分が評価する概念はイエス自身の口に置くか、地の文で書くかのどちらかである。マタイとは異なり、好意的な表現を「弟子たち」の口に置くことは一切していない。
マタイやルカのいわゆる正統派キリスト教は、ペテロたちのキリスト教を文字通り「正統」として高く評価しているが、マルコやヨハネには、むしろ「正統派」を批判しているキリスト教の姿がある。