●クリスチャンと呼ばれたのは、「神慮による」のか?
NWTで使徒11:26「弟子たちが神慮によって、クリスチャンと呼ばれる」と訳されていることについて、もう一言。
この句は、「呼ばれる」「弟子たち」「クリスチャン」の並びの三語で構成されている。
まず、「神慮によって・・・と呼ばれる」と訳されているギリシャ語についてであるが、初期キリスト教時代のクリスチャンは、ユダヤ教キリスト派、あるいはユダヤ教ナザレ派と呼ばれていた。
それゆえ、「クリスチャン」という呼び名は、キリスト教を弾圧している側の文書に多くみられるので、批判的な外部の人間から侮蔑的に呼ばれた名称であるとする説や、侮蔑的な名称ではないが、外部の人間が付けた名称であるとする説もある。
問題は「神慮によって・・・と呼ばれた」と訳されているギリシャ語chrematizoである。
この動詞は、能動態の自動詞であり、受動態ではない。能動態の文を受動態で翻訳するのは、文法的に基本的な間違いである。
このchrematizoは、「必需品、必要」を意味するchremaという語幹に由来する自動詞である。それが、BC2世紀ごろ、ヘレニズム文化の発展に伴い、「・・・と称する」という意味にも用いられるようになった。「・・・と称される」ではない。
地中海貿易ビジネスが隆盛を迎えるにあたり、chrema(必需品、必要品)を扱う商業主が存在するようになり、「その名前(chrema)で商売をする」というのが、「・・・という名前で呼ばれる」という受身の意味に転じていったものと思われる。
商売の屋号でしかなかったものが、いつの間にか扱う必需品の名前がそのグループの名称となったのであろう。
肉を売る人が肉屋さんと呼ばれるのと同じようにである。
しかし、肉を売る人が自分で自分の職業を肉屋と呼ばなければ、他人から肉屋と呼ばれることはないであろう。他人にとっては、肉を売る人であっても、本人としては、解体屋かもしれず、万屋かもしれないからである。どんな必需品を扱うにしても、○○を売るのが「○○屋」である。逆はない。あなたが○○を必要としているから、わたしが「○○屋」であるということなどありえない。
三語のうちの残り2つの名詞「弟子たち」「クリスチャン」はどちらも対格である。
もし、動詞が他動詞であるなら、2つの目的語を持つとして、「弟子たちをクリスチャンと呼ぶ」と訳すことも可能である。誰が呼んだのか、主語は文脈から30節に出てくる「彼ら」であり、「バルナバとサウロ」以外にあり得ない。
仮にそうすると、「バルナバとサウロがアンティオキアではじめて弟子たちをクリスチャンと呼んだ」という意味になる。これでは「神慮」とは、「バルナバとサウロ」の意向によるものとなってしまう。
もともと、自動詞を他動詞と解することが文法的に無理であるが・・・。(笑)
この句は、不定詞形であり、ギリシャ語の場合、不定詞の主語は対格に置かれるのが普通である。つまり「呼ばれる」「弟子たち」「クリスチャン」の並びの2番目の「弟子たち」が主語となり、3番目の「クリスチャン」は自動詞の主語を説明する補語の役割を果たすことになる。
結局、この文は「弟子たちが自分たちをクリスチャンと呼んだ」と訳すことになる。当然、自動詞であるから、「呼ばれた」わけではない。
「クリスチャン」という語は、聖書中三回出てくるが、ルカが2回(使徒11:26,26:28)その他は、ペテロ第一4:16に出てくるだけで、パウロもバルナバも用いていない。
もし、パウロが「クリスチャン」という語を自分が初めて使用したとしたら、自分の書簡に使用しないわけがない。なにしろ、自分が最初に使用したeuangelionについては、七書簡中48回も使用しているほど自己顕示欲の強い人である。
能動自動詞を受動態で訳するのは文法的にも用例的にも無理。
語源的にも、「そういう名前で仕事を、させるではなく、する」という意味だから、自動詞と解するのが順当。
結局、アンティオキアの信者たちは、パウロやバルナバからではなく、自ら自分たちを「クリスチャン」と呼ぼうではないかと自称することにしたのである。
言語的には、「神慮」はどこにも存在していない。
「洞察」には「神慮によるクリスチャンの名称」についてのいくつもの文献を参照した解説がある。しかし、その説明は、教会の権威が確立された後の、中世の護教主義神学者による、さらに「聖書」を神格化させようとする解釈による註解である。
使徒行伝が書かれた時代に、「・・・と称する」という語が、神と関係した語であるとの使用例は存在しない。
古語を解釈するのに現代語の辞書を使って、現代語の辞書に「…」という意味がある。だから、古代人も現代人と同じ解釈で生活していたと説明しようとするようなものである。
時代錯誤も甚だしい。(笑)
NWTはパウロ信奉者が自ら自分たちを「クリスチャン」と呼ぼうではないか、我々こそがイエスの正統な継承者であり、われわれの福音こそ真理だから、と言い始めたことを、「神慮によってクリスチャンと呼ばれた」と訳出したのである。
まさしく自らを神によって「油注がれた者」であると呼び、「神慮によって」統治体に任命されている、と宣言している方々に相応しいものである。
自称、「唯一の神の組織」と主張するWT。
「神慮によって」採択されたとする「エホバの証人」という名称。
JW以外はすべてハルマゲドンで滅びると説く、自称「イエスの正統派後継者」のJW。
WTとは護教主義キリスト教の負の遺産の継承者。
パウロ派やペテロ派に代表されるクリスチャンの独善権威主義をまさしく体現している組織。
組織崇拝者のJWは、残念ながらマルコの伝えたかったイエスの福音euangelion、イエスの生き方からは遠く離れてしまっているように思える今日この頃である。
●クリスチャンと呼ばれたのは、「神慮による」のか?
NWTで使徒11:26「弟子たちが神慮によって、クリスチャンと呼ばれる」と訳されていることについて、もう一言。
この句は、「呼ばれる」「弟子たち」「クリスチャン」の並びの三語で構成されている。
まず、「神慮によって・・・と呼ばれる」と訳されているギリシャ語についてであるが、初期キリスト教時代のクリスチャンは、ユダヤ教キリスト派、あるいはユダヤ教ナザレ派と呼ばれていた。
それゆえ、「クリスチャン」という呼び名は、キリスト教を弾圧している側の文書に多くみられるので、批判的な外部の人間から侮蔑的に呼ばれた名称であるとする説や、侮蔑的な名称ではないが、外部の人間が付けた名称であるとする説もある。
問題は「神慮によって・・・と呼ばれた」と訳されているギリシャ語chrematizoである。
この動詞は、能動態の自動詞であり、受動態ではない。能動態の文を受動態で翻訳するのは、文法的に基本的な間違いである。
このchrematizoは、「必需品、必要」を意味するchremaという語幹に由来する自動詞である。それが、BC2世紀ごろ、ヘレニズム文化の発展に伴い、「・・・と称する」という意味にも用いられるようになった。「・・・と称される」ではない。
地中海貿易ビジネスが隆盛を迎えるにあたり、chrema(必需品、必要品)を扱う商業主が存在するようになり、「その名前(chrema)で商売をする」というのが、「・・・という名前で呼ばれる」という受身の意味に転じていったものと思われる。
商売の屋号でしかなかったものが、いつの間にか扱う必需品の名前がそのグループの名称となったのであろう。
肉を売る人が肉屋さんと呼ばれるのと同じようにである。
しかし、肉を売る人が自分で自分の職業を肉屋と呼ばなければ、他人から肉屋と呼ばれることはないであろう。他人にとっては、肉を売る人であっても、本人としては、解体屋かもしれず、万屋かもしれないからである。どんな必需品を扱うにしても、○○を売るのが「○○屋」である。逆はない。あなたが○○を必要としているから、わたしが「○○屋」であるということなどありえない。
三語のうちの残り2つの名詞「弟子たち」「クリスチャン」はどちらも対格である。
もし、動詞が他動詞であるなら、2つの目的語を持つとして、「弟子たちをクリスチャンと呼ぶ」と訳すことも可能である。誰が呼んだのか、主語は文脈から30節に出てくる「彼ら」とは「バルナバとサウロ」以外にあり得ない。
仮にそうすると、「バルナバとサウロがアンティオキアではじめて弟子たちをクリスチャンと呼んだ」という意味になる。これでは「神慮」とは、「バルナバとサウロ」の意向によるものとなってしまう。
もともと、自動詞を他動詞と解することが文法的に無理であるが・・・。(笑)
この句は、不定詞形であり、ギリシャ語の場合、不定詞の主語は対格に置かれるのが普通である。つまり「呼ばれる」「弟子たち」「クリスチャン」の並びの2番目の「弟子たち」が主語となり、3番目の「クリスチャン」は自動詞の主語を説明する補語の役割を果たすことになる。
結局、この文は「弟子たちが自分たちをクリスチャンと呼んだ」と訳すことになる。当然、自動詞であるから、「呼ばれた」わけではない。
「クリスチャン」という語は、聖書中三回出てくるが、ルカが2回(使徒11:26,26:28)その他は、ペテロ第一4:16に出てくるだけで、パウロもバルナバも用いていない。
もし、パウロが「クリスチャン」という語を自分が初めて使用したとしたら、自分の書簡に使用しないわけがない。なにしろ、自分が最初に使用したeuangelionについては、七書簡中48回も使用しているほど自己顕示欲の強い人である。
能動自動詞を受動態で訳するのは文法的にも用例的にも無理。
語源的にも、「そういう名前で仕事を、させるではなく、する」という意味だから、自動詞と解するのが順当。
結局、アンティオキアの信者たちは、パウロやバルナバからではなく、自ら自分たちを「クリスチャン」と呼ぼうではないかと自称することにしたのである。
言語的には、「神慮」はどこにも存在していない。
「洞察」には「神慮によるクリスチャンの名称」についてのいくつもの文献を参照した解説がある。しかし、その説明は、教会の権威が確立された後の、中世の護教主義神学者による、さらに「聖書」を神格化させようとする解釈による註解である。
使徒行伝が書かれた時代に、「・・・と称する」という語が、神と関係した語であるとの使用例は存在しない。
古語を解釈するのに現代語の辞書を使って、現代語の辞書に「…」という意味がある。だから、古代人も現代人と同じ解釈で生活していたと説明しようとするようなものである。
時代錯誤も甚だしい。(笑)
NWTはパウロ信奉者が自ら自分たちを「クリスチャン」と呼ぼうではないか、我々こそがイエスの正統な継承者であり、われわれの福音こそ真理だから、と言い始めたことを、「神慮によってクリスチャンと呼ばれた」と訳出したのである。
まさしく自らを神によって「油注がれた者」であると呼び、「神慮によって」統治体に任命されている、と宣言している方々に相応しいものである。
自称、「唯一の神の組織」と主張するWT。
「神慮によって」採択されたとする「エホバの証人」という名称。
JW以外はすべてハルマゲドンで滅びると説く、自称「イエスの正統派後継者」のJW。
WTとは護教主義キリスト教の負の遺産の継承者。
パウロ派やペテロ派に代表されるクリスチャンの独善権威主義をまさしく体現している組織。
組織崇拝者のJWは、残念ながらマルコの伝えたかったイエスの福音euangelion、イエスの生き方からは遠く離れてしまっているように思える今日この頃である。