●正典性について

 

現在見られるような形の正典目録を構築させたのも、聖書霊感説と同様、ヒエロニムスに端を発している。 

研究4:5で正典つまりkanonについて根拠をパウロのガラテア6:16「この行動の基準」の語に求めている。ガラテア6:16「この行動の基準にしたがって整然と歩むすべての人、そうです神のイスラエルの上に、平和と憐れみとがありますように」(NWT)。

「全体」4:5にあるように、「基準」と訳されているkanonは確かに「ものを測るのに使う尺度、物差し」を意味している。

 

しかし、「この行動の基準」の中に、誰が含まれるのか、前節の6:15にWT教理とは異なる示唆がある。ガラテア6:15「割礼も無割礼もなく、ただ新しく創造されることが重要なのです」(NWT)。

つまり、6:16の「この行動の基準」の中には、6:15の「無割礼の者」が含まれていることが理解できる。

 

ところが、NWTは原文の接続詞kaiを「そうです」と訳している。このkaiを同格を意味するものと解し、NWTは、「この行動の基準に並ぶ者」とは、すなわち「神のイスラエル」であるとしていることになる。

 

このkaiは、英語のand「そして」であり、並列の意味。二つの異なるものを単に二つ並べているだけに過ぎない。ギリシャ語本文の構文上、このkaiは説明のkai、「並びに」とか同格の意味の「そうです」とはなり得ない。

 

パウロはユダヤ人以外を「イスラエル」と呼ぶことはなかった。しかし、ガラテア6:16には「この行動の基準に並ぶ者」が、前節(6:15)の「無割礼の者」を含むすべての人が含まれている。「この行動の基準に並ぶ者」の中に、ガラテアの異邦人のキリスト教徒が含まれている以上、「神のイスラエル」と「この行動の基準に並ぶ者」と同格となることはあり得ないのである。

 

パウロとしては、現在キリスト教徒である者たちだけでなく、キリスト教徒になっていないユダヤ人にも神の憐れみと平安が与えられるようにと祈りたかったものと思われる。

 

WTはガラテア6:15で「異邦人」が「この行動の基準」に含まれていることを認める時には、「地的なクラス」も「天的なクラス」も聖書の同じ基準が当てはまることを示す聖句として用いる。

一方、奴隷級の権威を高めたい時は、真の意味で「神の憐れみと平和」を受けているのは、「神のイスラエル」だけである。「この行動の基準」を決めることが出来るのは、「奴隷」つまり統治体だけであることを示す聖句として、6:16を用いる。

6:15と16は、同じ論議の結論部分であるのに、NWTは16節の後半だけ、「そうです、神のイスラエルに」と訳し、「無割礼の者」を除外した訳となっている。

 

NWTによると、「割礼も無割礼も重要ではない」との論議を繰り返し述べている人間が、結論で、「割礼を受けた神のイスラエル」こそ「この行動の基準を」決める権利を持っているのだ、と突然、変説したというのである。神のイスラエルを自認する統治体は、突然変異生体なのであろう。(W)

そんな人間がいたら、お目にかかりたい。まったく、逆の意味に改竄した聖句の一つ。現代の神の唯一の経路と称する、自称、忠実で思慮深い奴隷が監修した聖書が、これである。出版物に関しては、「推して知るべし」であろう。(W)

 

いずれにしても、ガラテア6:16のkanonという単語、一語をもってすべての書物の「正典化」、信仰、教理の絶対化とすることはできない。このkanonはあくまでもパウロのkanonに過ぎない。すべてのキリスト教徒がパウロのkanonに従っていたわけではない。

ましてや、パウロ神学と意見を異にしていた、マルコやヨハネの福音書著者たちがパウロの「この行動の基準」を統一見解として受け入れていたとはとても思えない。

 

マタイとルカは割と近かったかもしれないが、パウロの弟子であるわけではない。まして、エルサレムの教会に属していたペテロやヤコブたちとパウロは、結構、対立していた。(使徒15章ほか参照)

 

 

キリスト教会がこの語kanon(正典)をキリスト教用語として用い始めた時は、「カタログ、一覧表」の意味でしかなかった。「霊感」P303の目録が、まさしくkanonだった。

 

その表からもわかるように、新約27書が整うのは、367年アレキサンドリアのアタナシウスの時である。その後も、紆余曲折があり、ヒエロニムスが主宰した397年第三カルタゴ公会議で、一応、現在の形になる。

「一応」というのは、まだ旧約外典が含まれているからである。この時以降、kanon listから外れた、新約外典は「偽典」と呼ばれることになる。

つまり、新約のkanonが「正典」を意味するようになったのは、それ以降である。この時、イエスや使徒たちが用いた「70人訳」から、7冊の「外典」をさらに「偽典」に定めてkanonから除外したのもヒエロニムスである。

 

もっとも、現在の旧約39冊新約27冊で一冊の聖書の形になったのは、1546年のトレント公会議からである。それまではapokryha15書も旧約聖書の正典目録に含まれていた。

 

そもそも、Kanonの正典というイメージを利用して、正典だから正典であり聖書だとの論理は、循環論であり論理として成立していない。統治体の文書を疑わずに受け入れるべきなのは書いたのは統治体だからであると説明するようなもの。

内容を精査する前に、まず黙って統治体の権威を認め、書いていることをそのまま信じなさいと言っているようなものである。バビロンと揶揄する他宗教の信仰を「盲信」とこき下ろすが、このガラテア6:15,16の訳と適用が、どのように「理性による神聖な奉仕」(ローマ121)につながるのか、きちんとわかるように説明していただきたいものだ。(W)

 

これらのすべては、研究4:6にある、「全体に見られる内面的調和と矛盾するようなことが一切あってはならず、・・・・著者がただ一人、エホバ神であることを裏付けていなければなりません」というドグマ(教理的な刷り込み)に導くためのものであろう。(W)

しかし、「裏付けていなければ」という表現自体、「裏付けてはいない」とする別の意見があったことを示唆している。さらに、「ならず」という表現は、統治体以外の解釈は、許さないと述べているのである。

 

さすが、「ならず」者集団である。(W)