結論として聖書とは?

繰り返しになるが、テモテの書が書かれた時代に新約はもちろん旧約も一冊にまとまった正典としての「聖書」という概念はなかった。ギリシャ語では、定冠詞を付けて特定の文書や書物を指すことはあったが。Bibliaあるはta grapheとは「文書」という普通名詞の複数形を意味するに過ぎなかった。 

ラテン語のbibliaはギリシャ語のbibliaを単に音写したに過ぎず、ローマ・カトリックが自らの正統性を正当化するために、単数形の言葉として採用したのである。

 

研究4:2で、bibleという語が聖書の本文に出てこないことを、「意外なこと」としているが、当たり前のことである。聖書とされたヘブライ語・アラム語文書(旧約聖書)もギリシャ語文書も書かれた時代には、「聖書」という概念はなく、ただの「複数の文書集」という意味しかなかったのだから、至極当然のことである。

 

WTを含め、ほとんどのキリスト教は聖書そのものを神格化しようとしている。その一つの証拠がテモテ第二3:16の「聖書は神の霊感を受けたもの」とする訳であり、正確な歴史的事実を共有しようという意識がないことの表れである。

   語源論をわざわざ難解にし、正確な知識を混沌とさせる理由は、研究4:3の「それは神のみ言葉です」という結論に導くためであろうことは容易に想像できる。

WT文書には、「聖書十全霊感説」の信仰、さらに聖書の解釈をすることのできる者は「統治体」だけであるという権威主義的組織信仰(ドグマ)を刷り込むために、正典信仰を利用した循環論や二元論が多用されている。

  

研究4:4と16ヒエロニムスに言及しているが、ウルガタ訳の聖書学者として紹介しているだけで、宗派や信仰には触れていない。

確かに、4世紀末(382年旧約改訂作業着手、新約は4福音書のみ)、ローマ教皇(ダスマス)の保護の下、聖書をラテン語ウルガタ訳(普通版、普及版の意)にした人物である。

研究4:16で、39冊を22冊に数えたという情報を提供しているが、22がヘブライ語のアルファベットの数であるからそれに合わせたのであるが、異様に数字に拘るWTの姿勢はイルミナティーやフリーメイソンのマスターナンバーの影がちらついている。(W)

 

彼は、ローマ・カトリックの偉大な教父の一人とされている人物であり、三位一体論の推進者、ローマ皇帝の被護下にあった教父である。現代で言えば、ローマ法王のような存在である。

 

  非公認の書つまり外典の、すべてではないが一部を、取り除いたのも彼の決定である。つまりそれまでは、外典も含めてta bibliaとして扱われていたことは明らかである。