●「神の霊感を受けたもの」とは?

 

JWが「聖書が霊感を受けたものである」ことを説得するために、テモテ第二3:16を良く引く。そこには「聖書全体は神の霊感を受けたもの」(NWT)とある。「神の霊感を受けて」いるとは、どういう意味か?

 

聖書は、神の霊を受けたもので、間違いや矛盾はなく、救いや信仰の唯一の根拠するという考えを「聖書霊感説」という。神の霊が救いや信仰だけでなく、科学や歴史の他のすべての分野にも働いているとする考えを、「十全霊感説」という。両方合わせて、「聖書十全霊感説」を取る宗派もある。WTは創造の1日を24時間の一日とはしないが、基本的には「聖書霊感説」に従っている。

 

NWTもご多聞に洩れず「聖書全体は神の霊感を受けたもの」と述べている。この聖句は、特に近代および現代アメリカ・ファンダメンタリストが好んで「聖書霊感説」の根拠として用いる。

口語訳は「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもの」、新共同訳は「神の霊の導きの下に書かれたもの」と訳出。NWTは「霊感を受けた」とは、丁寧に脚注で「神が息を吹き込んだ」との字義訳をあげている。

いずれも、聖書に神聖不可侵の書物としての権威付けを与えようとの意図的な訳である。

 

しかし、原文のギリシャ語「theopneustos」は、神(theos)と霊(pneuma)をくっつけて一語の形容詞にした合成語である。あくまでも形容詞であり、動詞ではない。

 

確かにこの「霊」は、「神の霊」を考えていると思われるが、字義的には、「書物はすべて神的に霊的なもの」との意味。「神が息を吹き込んだ」とする動詞的な註訳は、主格形容詞の主格に重きを置いた後代の護教主義神学者の訳である。

 

つまり「霊感を受けた」とは、内容が「霊的」であることを示す「霊的な書物」という意味であり、「霊感を受けて書かれた書物」という意味ではない。

 

NWTは、テモテ第二3:16を「聖書」と訳しているが、この原文のギリシャ語は「書物」を意味するgrapheであり、「聖なる」を意味するhagiosあるいはhierosは付いていない。定冠詞はなくpasa=allという形容詞が付いているだけで、ただのgrapheである。

直前の3:15では、定冠詞にhierosを付け、「聖なる書物」ta hieros grammataとしながら、3:16では、単に、grapheなのである。 

graphegrammaはほぼ同義にもちいられることが多いが、どちらかというと、grapheが「書物」でgrammaが「書かれたもの、文字、文書」の意。grammaの複数形がgrammmataである。

 

新約の著者たちは旧約聖書を呼ぶ時には、hagiosを付けて、ta hagios grapheとするのが普通だが、3:15で、「聖なる書物」と訳されているギリシャ語は、ta hieros grammataとなっており、唯一の例外。

もちろん、16節の定冠詞なしのpasa graphe15節のta hieros grammataを指しているのだから、「聖書」と訳すことに問題があるわけではない。

 

しかし、15節のhieros付きの方を「聖なる書物」と訳し、16節のhieros無しの方を「聖書全体」と訳している。

「聖なる書物」と「聖書全体」では、どちらが、より「正典」性を感じるだろうか?多くの人は、「聖なる書物」と言えば、多くの聖なる書物の中のいくつか、あるいは一つとのイメージを持つだろう。

日本人の多くは、「聖書全体」と言えば、The Bible、つまり、定冠詞付きの単数の「聖書」をイメージするに違いない。 

しかし、多くの日本人のイメージと原語のギリシャ語本文の使われ方は、逆である。3:15の定冠詞+hieros付きがsome of themのイメージで訳され、ただの定冠詞なしのgrapheThe BibleつまりThe Holly Bibleのイメージで訳されているのである。

 

「聖なる書物は神の霊感を受けたもの」という訳と「聖書全体は神の霊感を受けたもの」という訳がイメージする「聖書」を比べてほしい。

前者は、「聖なる書物」とされ「神の霊感を受けたもの」と見なされている書物は、他にもたくさん存在しているのであり、いわゆる「旧約聖書」もその中の一つに過ぎない、と言っているだけのイメージになるのではないだろうか。

ところが「聖書全体」とする後者は、いわゆる「聖書」だけが、旧約だけでなく新約も含めた「聖書全体」が、それだけが、神の霊感を受けたものである、というイメージにはならないだろうか。つまり、他の霊感を受けたものとされているもの、聖なる書物とされているものは、神の霊感を受けたものではなく、聖書だけが神の霊感を受けたものである、ことを示唆させようとしているのであろう。

 

3:16grapheを「聖書全体」と訳すのであれば、少なくても定冠詞が付き、hierosが付いている3:15の「聖なる書物」という訳も「聖書全体」と訳すべきであろう。

 

しかし、実際には、「theopneustos」というギリシャ語を「神が聖霊を用いて聖書全体を書かせた」というイメージを刷り込みたいがために、本来、言語的には、より重く扱うべき15節のta hieros  grammataを軽く扱い、16節のhieros、定冠詞無しの軽く扱うべきただのgrapheを、より重厚な訳にしているのである。字義的な訳ではなく、自組織のドグマを意図した恣意的な訳である。

 

3:15を「聖書全体」と訳してしまうと、テモテが幼いころから親しんできた書物、「旧約聖書全体」だけを指してしまうことが明確になってしまう。しかし、3:16を「聖書全体」と訳すことにより、「新約聖書」を含めた「聖書全巻」のイメージを持たせることができる。

 

当然のことながら、テモテ第二3:16で言及されている「聖書全体」とは、外典を含む旧約のことである。WTでよく取り上げられるBC2世紀に翻訳された70人訳にも外典が含まれていた。

 

イエスや聖書著者が引用したとされる70人訳に外典が含まれており、熱心に読み、信じていたことになる。統治体文書以外を読んではならないとする、JWファンダメンタリスト、WT正典信者はこの事実を一体どうとらえるのだろうか?(W)