●聖書とは?(「聖書全体は神の霊感を受けたもので有益です」研究4「聖書と正典」より)

 

「霊感」研究4:1(P299~)の冒頭で「霊感を受けて書かれた正典」が「聖書」(bibl)であると紹介している。神の霊感を受けて書かれたものが、正典であり、正典だけが聖書である、と言う。一見納得できるように思えるかもしれないが、よく考えると、その正典性、つまり「霊感を受けている」となぜ言えるのかという命題を検証しようとしているのに、聖書は「霊感を受けて」いるからである、という結論を仮説に立てて、証明しようとしていることになる。

  これでは、私が真実を言っているかどうかを証明するために、私が真実だと言っているから、真実である、と言っているようなものである。まるで、真実さの証明とはならない。論理として成立していない説明である。はじめから、書かれている聖書の正典性に異議を唱えるなと言っているようなものである。(W)

 

聖書(bible)とは何か?

まず、WTの説くBibleの由来を検討してみる。研究4:1でbibleの語源として、ギリシャ語biblosの複数形bibliaをあげている。しかし、続く4:2では、bibliaを単数形のラテン語として紹介し、英語の語源となったとしている。 

これでは、ギリシャ語の複数形であるbibliaがどのように同じ形のラテン語の単数形であるbibliaとなったのか、理解できない。なぜ、英語でBible(聖書)と呼ばれるようになったのかも理解しにくい。

 

「霊感」4:1で、ギリシャ語のbibliaがパピルスの茎の髄を表すbiblosに由来することや、4:2で、70人訳のダニエル9:2でbiblosの与格・複数形のbibloisを用いていることは事実である。

もっとも、紛らわしい単語を並べながら単語の説明を一切していない。読者の言語に関する基礎知識を無視して、論議を進めていこうとするあたりに、独善的権威主義の影がちらつく。

 

問題はギリシャ語聖書にbiblosに関係する語を40回以上出ていることを、時代を無視して、ヘブライ語聖書と並列に紹介していることである。40回以上出てくるのは事実である。しかし、これでは、ヘブライ語聖書とギリシャ語聖書がパウロの時代から聖書として、まるで、共に、旧約聖書と新約聖書に正典化されていたかのような印象さえ受ける。

4:1、2の説明を読むだけでは、単数形と複数形の区別が曖昧で、冠詞のない言語を使う日本人にとって、Bibleの語源は、ギリシャ語のbibliaでもラテン語のbibliaでもどちらでも大差ないと考える人がほとんどであろう。