マタイ25:40 これらの最も小さい者たち

「最も小さい」とあるが、当時のギリシャ語では、最上級でも単なる強め、ほとんど原級と同じ意味に用いられることが多い。

大多数の写本で「わたしの兄弟である」原文(ton adelphon mouthe brothers of-me)」という三語の形容句が付いている。(ネストレ等も採用)
   この語を入れていない写本は、大文字写本では、Bの第一写記と0128の第一写記のみ。第一写記とは、その写本を最初に書いた人の写本ということ。さらに、小文字写本の1424番、古ラテン訳の写本2つ。さらに、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオス、ニッサのグレゴリウスの三人の引用句にも、この形容句がない。この初期教父たちの引用句に「私の兄弟である」という形容句がないのは注目に値する。

同じことを言っている24:45には「わたしの兄弟である」という形容句は付いていない。もともと「わたしの兄弟である」という句が付いていたのであれば、後代の写本家がわざわざ削る必要はない。25:40にも元々の原文に、この形容句がなかった可能性が高い。(デイビスほか)

 

マタイ20:27「あなた達」はマタイによる付加であり、マタイは一般の人たちを「弟子たち」とは呼びたくない。(12:49「弟子たち」参照)マタイが集めて来たこの譬話の原文には、もともと「わたしの兄弟である」という句がなかったのであるが、マタイが付加した可能性もある。

 

「わたしの兄弟」という語が付いていなければ、世の中にいる人の中で「最も小さな者たち」であるから、世の中で困窮している人やその他困難な生活状況に置かれている人を積極的に助けましょう、という一般の人たちに対する福祉的精神を喚起する話となる。それでは、一般の人たちを「弟子たち」とは呼びたくないマタイ派とっては、一般の世の困窮している人たちの福祉を気遣うことが、イエスに対する貢献となるという意味になってしまう。

 

しかし、「わたしの兄弟」という語が入ると、意味は真逆になる。キリスト教内の「最も小さな者たち」であるから、キリスト教内の困窮している信者に対して福祉的精神を実践することがキリストに対してそれだけなしたということになる。

 

「わたしの兄弟」という語が入ることにより、キリスト教会の内側にのみ眼が行くようになり、自分たち信者同士の関係しか考えなくなる。一部のキリスト教においては、キリスト教と無関係な人間に対して何かをしたとしても、キリストのために何かをなすこととは無関係のこととなった。

この写本家による付加は、3世紀ぐらいのかなり早い段階から持ち込まれたものであろう。マタイの原本にはなかった可能性の方が高い。

イエスが直接語ったのであればキリスト教がまだ存在していなかったのであるから、誰に対しても「わたしの兄弟のうち」と語ることは不可能である。(マタイ23:8「あなた方はみな兄弟だからです」の説教は、マタイによるマルコ12:38-39を基に編集創作した自派教会信者向け用の説教。イエスの言葉というより、自派のドグマをイエスの口に置いたもの。)

 

わずか定冠詞を含め三語、定冠詞と属格代名詞を除くと「兄弟」一語を入れるだけで、キリストのためになすことの意味が真逆になる。

 

 

NWT「わたしの兄弟のうち最も小さな者」

「小さな者」とは「油注がれた者」を指すとの解釈。

「わたしの兄弟のうち」という語句が、後代の写本家による付加であることになると、「奴隷(級)」の支持を要求する聖書的根拠の一つを失うことになる。同時に「奴隷(級)」を王国の宣教、資金面、経路である会衆の長老たちをどれほど熱心に支持したとしてもキリストのために行なったことにも、裁きの時の救いの根拠とも見なされないことになる。「羊と山羊の譬話」の中で「わたしの兄弟」は存在しなくなるのだから、「羊と山羊」に分けられるための根拠は彼らの関係とは全く無関係なものになる。

 

JW以外の「最も小さな者たち」であるこの世の困窮している人々を完全に意識から締め出し、組織内の「最も小さな者たち」である特権のない者や組織批判者を霊的弱者あるいは排斥者として忌避する者たちは、存在しない「わたしの兄弟」を支援する人ということになる。

 

原文に存在しない可能性が高い「わたしの兄弟」を熱心に支持しようとする人たちは、むしろ、山羊に対する宣言が下されるのではないだろうか。「これら最も小さな者たちの一人(JW以外も含めた社会的弱者)にしなかったのは、それだけ私に対してしなかったのです」と裁き主であるイエスから永遠の切断に入るよう断罪されることになりませんように。

 

24:45には「わたしの兄弟のうち」という語句は付いていない。両方についていた可能性もゼロではないだろうが、本文批評を生き残った現在の原文についていないものに、原文にはあったとすることはできないであろう。聖書霊感説を捨てるのでない限り、両方に付いていたとするのは無理である。もちろん24:45に「わたしの兄弟のうち」という三語が入っている写本は発見されていない。