幼少期、ワシに運ばれ奈良へ

世界遺産・東大寺(奈良市)の創建に尽くし、

初代別当(住職)となった良弁(ろうべん)僧正

(689~773年)をしのぶ没後、1250年の

御遠忌法要が令和5年に同寺で営まれた。

 

良弁は幼い頃にワシにさらわれて大和に

やってきたという伝説が残り、文学や

歌舞伎の題材になった。

 

時代を超えて親しまれる高僧ながら、

その実像は謎に包まれている。

東大寺建立に尽力、2023年は没後1250年

がっしりとした体格に意志が強そうな顔。

良弁僧正坐像<国宝、平安時代>は、東大

寺大仏殿東側の高台にある開山堂に安置

されている。

命日の12月16日に開扉され、僧侶や参拝者

らが遺徳をしのぶ。

近くの法華堂では、仏法を守護する執金剛神

(しゅこんごうじん)立像<国宝、奈良時代>も

開扉される。

良弁にとって執金剛神立像は重要な意味を

持つ。

日本霊異記にある説話によると、良弁とも

される

「金鷲優婆塞(こんすうばそく)<行者>」が

修行のため、執金剛神像のふくらはぎに縄を

かけて引き結び、昼夜礼拝を続けると、像が

光を放った。

 

これを知った聖武天皇は行者の出家を許可

したという。

 

子供の頃から伝説を聞かされたという東大寺

のA執事長は

「良弁さんは文字では表せない、宗教家と

  しての不思議で神秘的な魅力を持った人

  だったのでしょう」

と話す。

文楽や音楽劇

良弁の生涯は、平安時代の寺誌「東大寺

要録」や鎌倉時代の仏教史書「元亭釈書

(げんこうしゃくしょ)」に記され、文楽

の「良弁杉由来」などを通じ語り継がれて

きた。

 

「良弁杉由来」などは、良弁は幼少の頃に

近江(滋賀県)の畑でワシにさらわれ、大和へ

連れてこられた、としている。

 

義淵(ぎえん)僧正に救われてやがて東大寺の

高僧となる。

高僧になったことを知った母親は、ワシが

わが子をおろした東大寺二月堂下の杉に手紙

を張って親子であることを伝えた。

「東大寺別当も結局は人の子で、母との再会

  を 喜ぶ。

  そこに多くの人の心を打つ奥ゆかしさがある」

 とA執事長。

  母子再会の話は、現代もミュージカルにして

  市民劇団が上演するなど人気を集めてきた。

  そもそもなぜ、良弁がワシにさらわれたと

  いう話が生まれたのか。

 

立命館大のB教授は

「幼児がワシにさらわれる類話は多い。

 良弁の場合は稀有な体験を通じて高徳を

 強調するために作られたのだろう」

とみる。

近江とゆかり

良弁の出身地は、近江と相模(神奈川県)

ともされる。

近江とされるカギは石山寺(大津市)に

ある。

 

同寺の縁起によると、聖武天皇から大仏造立

に使う金の産出を祈願するよう命じられた

良弁は、

 金峯山<キンプセン>(奈良県吉野町)の蔵王

権現(ざおうごんげん)のお告げを受けて石山

の地へ。

岩の上で祈願したところ、陸奥国(現在の福島、

宮城、岩手、青森県)で金が発見された。

この岩の辺りに良弁が草庵を結んだのが石山寺

の始まりとされる。

近江が関係する背景について、B教授は

「平城京や東大寺に使われた部材は水運で

輸送された。

集積の地の一つだった近江、特に湖南地域は

奈良とゆかりが深い土地だ」

と説明する。

 

大仏造立が当初は現在の滋賀県甲賀市で

計画されていたことからしても、湖南と

奈良は結びついている。

聖武天皇に影響

良弁は義淵僧正に法相宗を学び、執金剛

神像を祭って修業した後、僧、審祥(しん

じょう)から華厳(けごん)教学を学んで、

東大寺の創建に尽くしたとされる。

 

初代良弁から数えて第224世にあたる

現在の別当Cは良弁の功績について、

「華厳経を説き広めた意義は大きい.

  それが現在の東大寺にもつながる」

 と指摘する。

良弁が造立を進言したともされる

東大寺の盧舎那仏(大仏)は、華厳経の

根本となる仏だ。

聖武天皇は、大仏造立の詔に

「動植ことごとく栄えんことを欲す」

と記した。

ここに

「華厳経の影響がうかがえる」

とC別当。

「聖武天皇の視点は、それまでとは違い、

  自分の国だけでなく、生きとし生ける

  ものに及んでいる。

  天皇は良弁との関わりの中で華厳経に

  傾倒したのだろう」

と話した。