昨日は長い長い、本当に長い一日だった。
何分間とか、何時間とか、一日とか、一週間とかって言う単位じゃなくて、人生の一部分を確実に切り取るような一日。
それが実際にどれだけの時間だったかはよく分からない。
少なくとも、目覚めてから眠りの淵に手をかけるまで。
秒数を割り出して、それをメートルにしてみたらきっとどこか遠い国まで飛んで行けただろう。
そんな『12月11日』という日を人生の記念日にするべきなのか、そうではないのか?
手をかけた眠りの淵からズルズルと緩やかに落下していくその途中までも僕はずっと考えていた。
12月11日という日を振り返り、
遡ってこの一年を振り返り、
初めて自転車に乗れるようになってから何年だっけ?と振り返り、
自分の人生を振り返りながら、先を見据えた。
そこには楽観も悲観も無く、諦観を悟るには早すぎた。
互いに共有してきた時間が孤独を生むかもしれないし、孤独を共有して新たな時間を生み出すことも可能なのだ。
こういったノスタルジーに答えはない。
いや、むしろ必要が無い。
それでも彼は一回死んで、そして生き返ってきた。
周りの人間はそれを自分の身に置き換えて悔い改めれば良いし、彼はその幸せを、存分に享受する義務がある。
そして僕が今夜、体質的に苦手なウィスキーをロックで煽りながらoasisの『Definitely Maybe』とBEATLESの『1967-1970 (青盤)』を聴いているのは、ただ気分よく酔っ払っているからじゃないってことを、こうして書き留める。
僕が聴きたかったのはこのアルバム達だし、『Live Forever』や『Don't Let Me Down』が流れれば体を揺らす。
ただそれだけのことなのだけれど、だけど今の僕の中に入ってくる音は、全てが意思を持って何かを伝える。
昨日、僕にとってとても大切な人が12時間にわたる手術を受けて見事に生還した。
きっと、彼にとっても、僕にとっても、この先の人生を決定付ける一日だったのだ。
…といつかゆっくりと語り合うだろう。
それでいいんだ。
待っている間、病院の窓から見える空が蒼く、とてもキレイだったおかげで救われた。
風が強くて、足速に流れる雲をただただ眺めていた。
生と死を、ただここにある当たり前の生を、そしてそれ以上に当たり前な死を、痛いほどに味わい、言葉を失い、ハンドルを握ってアクセルを踏んだ。
それは23時過ぎ。
彼はもう無事にこの世に生還していたのだけれど、今度は己の生を実感しなくてはいられなかった。
だから、彼が幼い頃の僕に教えてくれたBEATLESと自分が初めて大切に感じたoasisを、彼の好きなウイスキーと共に。
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