深夜テンションと言うと、なんだかそれが悪者のように連想される。本当に悪者なのかな。
調べてみるとどうやらこれは人間の本能のようで、外国でも「natural high(ナチュラル・ハイ)」という言葉で認識されていた。みんな、そういうものを持っているってことだろう。
人間は、夜には警戒心を強めるために神経が活性化してやたらとテンションが上がる性質があるらしい。だからその勢いでラブレターなんかを書くとやたらとポエミーだったりして、それが深夜テンションが嫌われる理由のひとつな気がする。
僕もその話を聞いて、ああ、僕もラブレターを書いたことがあったなあとか、そういえばあれを書いたのも深夜だった気がするぞ、とか、なんて書いたっけな……なんて記憶の連想ゲームをしていくものの、幸運なことにその内容が思い出せずに終わる。
なんだ、「幸運なことに」って書いてるってことは、僕も深夜テンションで書いたことを思い出したくないんだ……。
深夜テンションの存在を憎んでいたのは他の誰でもなく僕だったということに、これを書いているうちに気づいていく。でも、それは本心じゃなくて、記憶が「なんとなく」作った根拠のない考え方というか、本心とは裏腹に凝り固まった思考のダマみたいなものだと思う。そうだ、躊躇せずに自分をさらけ出せるなら、深夜テンションも悪くないじゃん!って気になってくる。この180°の思考の変化をいとも容易く成し遂げてしまうのが、文章の面白いところだと思う。
文章って、絡まった糸をゆっくり解いていくような、不思議な力を秘めているような気がする。自分で文章を書くのもそうだけど、他人の文章を読むことでも、同じことができたりする。そして、ただの糸が絡まったくず玉だと思っていたものが、解いてみると実は綺麗な輪っかになっていて、そうかこれはあやとりの紐だったのかな、なんて、今まで許せなかったものが許せてしまうような、そんな、マイナスをプラスに変える力が、文章にはあると思う。それが長い長い小説であっても、たった一行のキャッチコピーであっても、もし何かが解けたような、もしくは何かが弾けたような、そんな感覚になったときは、文章が自分を揺すった瞬間なんだと思う。

今日、僕は「ROCK」という言葉について考えた。
僕はときどき、意味に関係なく、響きが気持ちのいい言葉というものに出会うのだけど、「DON`T STOP ROCKIN`」という曲の名前(最近お熱のmaimaiという音ゲーの曲なんだけど)が最近ストンと胸に入った。気持ちがよかった。
うん、なんだか口にして気持ちいい。ドントストップロッキン。でも、そうしているうちに僕は「ROCKIN`」の意味を知らないことに気が付いた。「Rocking」、すなわち「Rock」のing形というところまではわかるけど、「Rock」ってなんだろう。世界のYAZAWAがスタンドマイクを握りしめて歌う様子や、エレキギターを軽快にかき鳴らすバンドマンの姿は目に浮かべど、じゃあどういう意味?と言われても答えられない。
英語の家庭教師のバイトをしている身として、意味の分からない英単語に出会ってしまったらそれを調べるのは仕事の一部のような気もしたし、何より多分そんな建前を抜きにしてもいいくらい、その言葉の意味が気になって、画面が故障したスマホを必死になぞって、意味を調べた。
あなたは知っていただろうか。答えは、「揺する」らしい。
僕は正直、ん?という感じだった。僕はもっと激しい、「反抗」とか、「攻撃」とか、そういった言葉をイメージしていたから、肩透かしを食らった気分だった。でも、そのあと間もなく、「揺する」でないと駄目なような気がしてきた。
バラードやジャズがせわしなく動いていた心をしんと鎮めて、聴く人を「静」にする音楽ならば、ロックミュージックは、「動」なんだろうと。それは嫌がらせという感じではなく、諦(あきら)めとか、絶望とか、そういったもので仮死状態になって動かなくなった心を、起きろ、起きろと揺すり動かす必死さというか、そこに確かな優しさがあるように感じられた。
それはまさに、文章が自分の何かを解く、あるいは弾けさせるのと同じように、ロックミュージックもまた人を救うための音楽なのだと、だから愛されるのだと、自分の中でとても納得がいった。実は、僕は今までロックミュージックに「反抗」や「攻撃」のようなイメージを抱いていたから、ロックがあまり好きではなかった。けれど、僕は今、ロックもいいよなあなんて思っている。

あっ、また言葉に紐解かれてしまった……。

言葉に、今までの自分の中の常識をあっさり覆されるなんてことは、珍しくない。それまで何年かけて押しても引いてもびくともしなかった自分の心の結び目や、そもそも自分で気づけなかった絡まりが、勝手に解けて、綺麗な線になっていく。勿論、言葉は綺麗な線を結ぶことだってできる。不思議だな、と思うけど、心地の良い不思議さというか、言葉になら身を預けてもいいというような、安心感がある気がする。
中には自分にとってまったく響かない言葉もある。それもまたいいと思う。きっとその言葉が指している部分は、もうすでに綺麗な一本の紐になっていて、結び目なんてないんじゃないかな。だから、自分に響かない文章を読むことも、損なことではないと思う。

もし僕が書いている言葉のどれかひとつが、ちょうどあなたの結び目を探り当てることができたなら、それはとてもラッキーなことだし、そうでなくても全然不思議じゃない。
でも僕は、そのラッキーが、僕の文章のどこかにあればいいな、と思って、書いている。
あなたは見つかったかな、どうかな。