10代としての人生もついに終わるということで、3ヵ月ぶりに筆をとろうと思う。
かといってなにか特別書きたいことがある訳では無いので、取り留めのないことを沢山書くと思う。ほとんど独り言に近いから、多分オチもない。
ただ、きゃりーぱみゅぱみゅが「ふりそでーしょん」で20歳になる自分の歌を歌ったように(正確には作詞は本人ではないけれど)、僕は大好きな文章を書くという方法で、今思っていることを形として残しておきたいと思う。


20歳になることは、ただ10代としての10年間が終わるだけの意味にとどまらないと思う。成人するということは即ち大人になるということで、社会からもそのように扱われることになる。責任が重くなる反面、自由も増えるというのはよく言われることだけど、僕にとって言葉の重みが増すことがとても大きなことに感じられる。
子供の頃から僕はたいへんにお喋りだった。自分の中にある考えや想いを常に言葉にしていなければ気が済まなかった。けれど、自分がどんなに真面目に、本気で訴える言葉も、大人は「所詮子供の言うこと」と端から相手にしてくれない、或いは軽くあしらわれることもしばしばあって、僕はそれがたまらなく悔しかった。だから、早く大人になりたいとずっと願っていた。

そしていざ念願の大人になれるという一歩手前まで来てみると、案外複雑な心境だった(というか、むしろ薄々気づいていたから案の定、かもしれない)。
まず一番に、大人になるということにネガティブになる理由として、自分がそれに相応しくないと思い始めているということが思い浮かぶ。子供の頃は、自分の中に湧き出る抑え難い想いや意見の数々にとても自信があったし、それを訴え続ける(訴えるというよりは、単に楽しく喋るという感じではあったけれど)ことがとても楽しかった。それが今になって、自分の想いや意見に自信が持てなくなってしまった。それに従って、誰かに話したり、ましてやインターネットでそれを素直に吐露することが怖くなってしまった。だから、思ってもないような「評価される自信のあること」を優先して口にするようになった。
「それが大人になるということ」という意見を素直に聞き入れて諦めるには、あまりに大きな楽しみと生き甲斐を失った気がする。僕は、単純に、これは悪い変化だと思う。失いたくないものを失ったと思う。
いつが堺になっているかはわからないけど、振り返ってみるとそれを失ったのはかなり最近のような気がする。少なくとも、ニコニコ動画で艦これのゲーム実況を始めた時は、まだそれを失っていなかった。今になって当時の動画を見返すことができるというのがとても幸いなことで、見てみると当時の僕は羨ましさすら感じるほどに自分の意見を堂々と語っているし、そんな自分がとても楽しそうに見える。
失ってそう日が経っていないものなら、取り戻すのにもそれほど時間は掛からないかもしれない。そうであることを切に願う。

もう一つだけ、自分が大人になるのに際して、未熟だと感じることがある。自分の快を優先しすぎることだ。Twitterやニコニコ生放送でひたすら愚痴をこぼしてしまうことがその最たる例だと思う。自分は、なんとなく、愚痴を言えば慰めてもらえる環境にいることを自覚している。それに甘えて、好き放題愚痴を言ってしまう自分が狡いと思う。愚痴を聞くのは嫌なことだけれど、親しい友人のものなら、それに寄り添うことで信頼関係を深められるという意味でプラスになる場合もある。それならば友人に愚痴を言えばいいのに、僕はインターネットを選ぶ。無闇に聞く人を嫌な気持ちにさせる。とても褒められたことではないと思う。僕のインターネットでの活動を、リアルの友人が見ていることもある。そのとき、友人ではなく不特定多数の人たちを頼る僕を見たら、友人は悲しい気持ちになったかもしれない。だとしたら、自分の行動が許せない。

見方によっては、この二つの課題は矛盾しているようにも思える。言いたいことを言えないのが問題なのか、言い過ぎているのが問題なのか、どっちが問題なのかがわからなくなる。ほんとうは、僕も自分のことをよくわかっていない。けれど、どんなに考えても、この二つのどちらも正しいように感じてしまう。

では、自分が成長したこと、或いは大人になるのに十分優れている部分はないだろうか。僕はきっとあると思う。
特にこれまで培ってきたもののなかで、本当に大切だと思えることが2つある。
ひとつは人の気持ちに寄り添うことができること、そういった狭い意味での優しさ、これは胸を張って誇れる。
ここでそれを誇らしげに語るのも恥ずかしいけれど、今だけ10代最後の日記ということを言い訳にそれを書かせて欲しい。
これは時々ニコニコ生放送などで語っていることだけれど、小・中学生の頃は僕はいじめられっ子だった。転校、進学含めて全部で4校に通学した経験があるけれど、不思議なことにそのすべてでいじめを受けた。でもそれは決して、僕に悪い影響だけを与えたわけではなかったと思う。これを機に、先述した優しさを得られたと思う。いじめは良くないことだし、しばしば人の性格を悪い方向に曲げるけれど、僕は幸運にもセラピストを母に持つ子供だったということもあって、その経験をうまく昇華できたし、この年になれば、さほどトラウマのように残る悪影響もない。当時辛かったのは勿論だけれど、今はその経験に大いに助けられている。

2つ目は、自分にとって異質であるものを受け入れられるようになったこと。これはかなり最近になって身についたことだ。
昔は、自分の理解出来ないもの、また信念に反する意見に対してとても反抗的で、平たく言うと思考が排他的だった。これが変わったのは高校三年生で、受験生だった時だと思う。
それまで、僕はたぶん学力でいうと平均よりかなり上に位置していたけれど、無意識のうちに勉強を苦手とする人たちを見下している節があった。勉強をして、いい大学に行って、いい会社に勤めることだけがいい人生だと思い込んでいた。
だけれど、僕は高校三年生になって、先生からの厳しい指導と周囲の高い期待に耐えられなくなり、メンタルをひどく崩してしまった。初めて不登校になった。その間、勉強なんて一切しなかったために、僕は一転成績を学校の底辺近くまで落とした。
今まで、自分が見下していて、負け犬だと思い込んでいた生き方のレールに、自分かいざ乗ってしまった時、ひどくショックだったけれど、でも高校を卒業するかしないかくらいの時期から、そんな生き方も悪くないと思い始めた。初めて、自分の信念が180度ひっくり返った。その時から、自分は自分の信念なんて思い込みに過ぎないことを自覚できるようになった。自分と異なる意見と出会った時、「そんな考え方もあるんだな」とそれを受容できるようになったことで、見える世界の広さが格段に広くなったように感じる。

他にも大人になるに際して、小さなポジティブ、あるいはネガティブな要素は沢山あるけれど、とりあえず以上各2点を書き記しておきたかった。

さて、そんな感じで思うことが沢山あるけれど、なんにせよ、僕は20歳になる。
この10年を自分なりに振り返ってみても、結局、僕は自分のことがよくわかっていないし、いつわかるようになるかもわからない。


けれど、これから10年間の自分に望むことなら、なんとなく定まっている。

それは、小学校の卒業アルバムの「20歳の自分へ」というメッセージコーナーに書いてあったこととほとんど変わらない。

『 ヤッホー!いま宇宙にいる?(笑)(※当時の夢は宇宙飛行士だった)それとも、別の仕事をして稼いでる?笑っていれば、どっちでもOK!さあ、頑張っていこー!』

当時20歳の自分に対して願ったことは、とにかく幸せであって欲しいということで、それ以外なんてどうでもよかった。

今から30歳に至るまでの10年間の自分に望むことなんて、幸せであること、そしてもしもうひとつ加えるとすれば、出来れば他人を幸せにできる人であって欲しいという、改めて書くまでもないことくらいだ。

結局、大人になるって何なんだろう。
わからないけど、今はわからないなりに、12歳の頃の自分の望み通り、笑って20歳の誕生日を迎えたいと思う。