理屈より身に行う
あるひとが論語の曽鮎の章のことをたずねた。翁はいわれた。――この章は「」さほどむずかしいわけがあるのではなかろう。子路と、冉有と、公西華と、三人の志の述べかたが、あまり理屈に過ぎたから、「吾は點(曽皙)に与せん。」と、一転しただけのことだろう。もし三人がみんな同じように、「舞うに風して詠じて帰らん。」といったとすれば、孔子はまた一転して、「用を節して人を愛し、民を使うに時をもってす。」(論語、学而篇)とか、「言忠信、行い篤敬」(同、衛霊公篇)などといい出しただろう。別に深い意味があるのではない。「前言はこれに戯るるのみ。」といった、あの類なのだろう。
感想
今日の一話は、論語の話しでは、国を治める時の志の述べ方が理屈に過ぎていた話しで、国を治める時は礼をもってするのに、はなしかたが謙譲でないもののいいかたをお笑いなったのです。
翁の方はこの話はそんなに深い意味はなく理屈っぽくきこえたから、そういったのだろうというはなしです。
志の話し方も過ぎれば理屈っぽくなり、理屈より実行・実践が伴ってこそ考えが生きるのですからね。わたしも痛感しています。