光輝いている | 魔法使いの奇跡の方程式

魔法使いの奇跡の方程式

日々気づいたことを書いていこうと思います。

『supernova』について


BUMP OF CHICKEN 「藤原基央supernovaについて科学する」の要約

新しく生まれた星のことを新星と呼ぶ。超新星って言ったらものすごい新しい星。でも実は違った。星が終わる時の輝き。超新星爆発とか言うけど星が爆発してもう最期。 寿命を全うして膨大なエネルギーに耐えきれず爆発する時に物凄い光量を放つ。その現象を超新星と呼ぶ。今までの光より輝く爆発する時は。切ないですよね。最後の最期で太陽を超えて輝く。太陽の輝きを超えられる。星によってはスーパーノヴァっていう現象が始まってやっと僕らが認知できるもの、僕らに認知される星っていうのもある。その星のことは知っていたかった。超新星になって改めて知るんじゃなくて。しかもタイムラグがある。 地球から見る天体ってのは大体何億年も前の姿が見えてる。今見えてる星は過去の姿が見えてる。それは光が進む速度があるから。超新星って姿が見えてるけどそれは何億年も前の姿が見えてるだけであって今はとっくにない。あんなところに綺麗な星がある、やっと気づいたのに同時間軸にはそれは存在しない。それが切なくて、人間に被らせてしまった。何回もこの友達大事だなあって心の中噛み締めたはずなのに、大事なことってその友達が転校してやっとわかった、自分の中でどれだけでかい存在だったか。飼ってる犬とか猫、両親、家族だったり亡くなったりして、いることが当たり前で当然認識してたはずだし感謝もしてたはずなのにいなくなって初めて自分にはおじいちゃんいたんだなあ、すごい大事に思ってたんだなあって俺のことを私のことを、喧嘩ばっかしてたけどなんで気持ち伝えられなかったのかなあとか、そんなのって誰でも経験したことあると思う。極論で言えば人の死、後になって超新星として認識することが多いと思う。人間関係って。超新星=人間関係の極みになっててその時には。超新星方式みたいなのが頭の中でできてて超新星に当てはめると皆が皆後になってわかるってこと。皆生まれたときから超新星。死ぬときとかお別れしたときが超新星じゃなくて、生まれたとき出会ったときそのときが超新星の始まり。人の一生を蝋燭に例えたりする。蝋燭が火がついて燃え尽きたときが寿命の終わりだっていう例え話ってある。どうしたら消えないんだろうって考えたら火をつけなきゃいい。火をつけたら消える可能性が確実に2つうまれる。突然的な可能性と必ず訪れる可能性として燃え尽きるっていうのがある。火さえつけなければ燃え尽きることはない。火をつければ必ず消える。蝋燭を星に例えてみると蝋燭に火をつけたときを新星、蝋燭が燃え尽きたときを超新星と考えてみると、マッチ、ライターが蝋燭の芯に触れない限り星は生まれない。 火がついたらすべての可能性が生まれる。燃え尽きる可能性が必ずある。超新星が始まったと解釈していい。だから皆が皆爆発の最中に見えた。太陽の何億倍の光量を放ってみえた。 先に死んじゃうであろうおじいちゃんもおばあちゃんも、先に死んじゃうであろうお父さんもお母さんも。家族も、いつか離れてしまうであろう友達も、大事な友達も大事じゃない友達も、好きな友達も嫌いな友達も、好きな先生も嫌いな先生も、それが大事なことでした。ずっとそれを基準に生きてきてます。皆が皆平凡に見えたってそこら辺にたくさんある星に見えたって超新星であることは間違いない。一個一個が太陽の数億倍の輝きを放っている。超新星って今ということ、今を掴もうとしてる感じ。5秒後には大きな地震が起こるかもしれない。どっかの国がミサイルを飛ばすかもしれない。 誰がいけないとか誰が悪いとかこうすればよかったああすればよかったじゃなくて。今だってね。そのだってねだって過去になってる。それを掴んだかどうか疑問。僕は限界とか終わりとかあるものごとを一番信用できる。限界がないなんて信用できない。僕には限界がある。それが誇らしいこと。

これを知ってから曲を聴くと違った味方ができると思う。


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