「預けとくからな。」
ゴンドラを降りる間際、あいつはオレの隣に立つとそう言って笑った。
預けとく。
つまり、それはいつかまたこの石があいつの元に戻るという事。
それは、オレ達二人がまた再び出会う日が来る。
そう告げているのと同意。
大きく目を見開いたオレにあいつがウィンクする。
終わりじゃない。
終わりにはさせない。
オレがすべて記憶を失くそうと。
あいつがオレとはまったく違う世界を生きている存在だとしても。
必ずいつか・・・。
そういう強い想いが伝わってきて、オレの胸の中にほんのりと淡い明かりが灯される。
じんわりと熱をもって、そのぬくもりがオレの中に広がり。
そして、傷だらけのオレの心を癒していく。
そう感じた。
「ああ、わかった。預かっとく。」
「よろしくな。」
そう言ってもう一度笑うあいつにオレは頷く。
「約束だ。」
「ああ。」
応えるとあいつはフッと息を吐いて微笑した。
そんなあいつを見て、オレも同じ様に笑みを浮かべる。
(紅子・・・。)
オレは先ほどあいつから聞いた話を思い出し、ゴンドラの外に出た後、歩きながら西の空に浮かぶ月を見上げた。
オレがこの場所にきた事にはあいつが関わっている。
『深き獄に繋がれし白き罪人、光の魔人一条の光となりて彼を助く』
白馬の姿で現れたオレに紅子が告げた予言。
あいつはすべてわかってたんだ。
なら、あいつはどんな想いでオレをこの世界に?
そう思いながらオレは視線を下げると、目の前で青子と並び歩くもう一人の自分を見つめる。
人の良さが滲み出てて。
その言葉の優しい響き。
いつも話す時には、オレに目線を合わせるか、もしくは立膝をついて下から見上げてきて。
真剣な表情で話をする。
絶対に上から人を見下ろす様な真似はしない。
本当に。
同じ自分とは思えない。
そんなあいつの元にオレを送った理由は・・・。
オレはそこまで思考を進めたところで、フッと息を吐いて瞼を閉じた。
(ありがとな、紅子。)
心の中で呟く。
いつか、その想いがあいつに伝わればいい。
はじめて。
素直に、そう思ったんだ。
それからオレ達は、最後に噴水広場の前で青子ご所望のアイスを食べて、そのまま出口のゲートへと向かった。
駐車場では、迎えに来た車のそばで、こっちの世界の寺井ちゃんが大きく手を振っていた。
(寺井ちゃん・・・。)
オレはその瞬間、ずっとオレのそばにいてくれた寺井ちゃんの事を思い出していた。
行方をさがしているけど見つからない。
名探偵はそう言っていた。
(どうか無事で・・・。)
心からそう願った。
瞼を硬く瞑り、唇を引いた。
そんなオレを、あいつは何も言わずに隣に立ち、横目でじっと見つめていたんだ。
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「いかがでしたか?ぼっちゃま。存分に楽しまれましたか?」
その声にハッとして助手席に座るオレは顔を上げた。
「お疲れになられましたか?何か途中で飲み物でも買っていかれますか?」
信号待ちで車を停車させた寺井ちゃんがわずかに首を傾げて問う声が静かな車の中に優しく響く。
「それとも、どこかお痛みになられますか?」
そう言いながら顔を覗き込んできた寺井ちゃんにオレが再び顔を伏せると、寺井ちゃんは額に眉を寄せてとても心配そうな表情を浮かべた。
「ゴメン、寺井ちゃん・・・。」
そう口にしたオレに寺井ちゃんは一瞬だけ目を大きく開くと、切なげに目許を細めて。
そうしてハンドルを強く握って、オレを横目で見ながら言った。
「大変なご苦労をなされたと伺いました。」
その言葉にオレはぎゅっと唇を強く結びもう一度顔を伏せる。
「やはり・・・無茶をなさるのはご一緒のようですね。」
溜息混じりのその声に、運転席の後ろで座るあいつがフッと息を吐いて笑う。
「寺井ちゃん。」
そう呼び掛けたあいつに寺井ちゃんはどこか楽しげにも聞こえる声で笑って言った。
「まあ盗一様の血を受け継いでいらっしゃるぼっちゃま方ですから、致し方のない事なのでしょうなぁ。」
「だろうな。」
あいつはそう応えると、窓枠に肘を掛けて外に視線を向けた。
それをバックミラーで見ていた寺井ちゃんは信号が青に変わると再び流れ始めた列に沿って車を走らせる。
「何かご心配事がおありですか?」
静かにたずねてくるその声にオレは掌を握り締めた。
「私(わたくし)には何も出来ませんが。ぼっちゃまの心を痛めているその一端でも、よろしければお聞かせ願えませんか?」
問いかける寺井ちゃんにオレは瞼をぎゅっと強く閉じると、その声に堪え切れずに言った。
「寺井ちゃんが・・・見つからないんだ。」
「ぼっちゃま・・・。」
呼び掛けてきた寺井ちゃんにオレは俯いたまま話し始める。
「青子が攫われて、助け出して・・・。それでもう元の生活には戻れない・・・って思った。だから、寺井ちゃんにすべて引き払う様に伝えて、連絡を絶った。それから一度だけ寺井ちゃんから連絡があったけど・・・。」
言い掛けてオレは掌を膝の上で丸めて強く握る。
その唯一の寺井ちゃんからの連絡もあの組織の罠でオレを嵌める為のものだった。
という事は、組織は寺井ちゃんがどこにいて何をしていたのかもすべて把握していたはずで。
だとすると、組織はいつでも容易に寺井ちゃんを連れ去る事が出来たはず。
そう思いながらオレは、後ろからあいつがじっとこちらを見ているのを承知で再び話し始めた。
「警部や青子を保護するのと同時に、名探偵があらゆる伝手を使って寺井ちゃんを探してくれたんだ。だけど、どうしてか寺井ちゃんだけはいまだに見つからない。もしかしたら組織に捕まってるのかも、ていうか・・・。」
「ぼっちゃま・・・。」
言い掛けて唇を噛んだオレを寺井ちゃんが憂慮の表情で見つめる。
そうとしか思えない。
そう・・・言おうとして、言えなかった。
声に出したら、きっとそれは現実になる。
完全に自分の中でその事実を認める事がオレは怖くて。
出来なくて。
(情けねぇな。)
苦笑いを浮かべて心の中で呟いた。
たぶんオレは今も、怖くて仕方がない。
ふとした瞬間に、意識がたった一人きりのあの独房に引き戻される。
引き摺って歩く鎖の音や、笑いながらオレを殴る男達の声。
そういうものに心が支配されていて、恐怖で体が震える。
そんな自分情けなくて嫌なのに。
そう思えば思うほど、自分自身にさえ嫌悪して。
大嫌いになって。
どうしたらいいかわからなくて。
そして、心も体も震えて。
何も身動きが取れなくなる。
そんな事を考えているうちに、再び体の至る所に残された傷が疼き始めた気がした。
もし寺井ちゃんが組織に捕まってたとしたら、今頃組織にどんな事をされているんだろう?
もしかしたら、オレが受けた以上に酷い仕打ちを受けているのかも・・・。
そう思うと、握った掌が少しだけ震えた。
「ぼっちゃま・・・。」
呼び掛けてくるその声にオレは俯いて頭を振る。
「なんでもない。大丈夫。」
自分の精一杯でそう応えた。
たぶん、後ろのあいつにはオレのそんな心の裡なんかバレバレなんだろうけど。
でも、少なくとも。
ここにいる寺井ちゃんにそれはまったく関係のない出来事で。
だからこそ、そんなあまりに情けない自分をこれ以上晒したくはなかった。
だから・・・。
そう思って深く息を吐くと、再び顔を上げてオレは無理矢理前を見据えた。
「ゴメン、寺井ちゃん。大丈夫だから。」
そう言うとオレは残り少ない青子の家までの道を、口を噤んだままフロントガラスの先に視線を向ける。
そんなオレに、寺井ちゃんもあいつももう、何も言わなかった。
そうして窓の外に流れていく景色を見ながらも。
やっぱり頭の中で、オレはずっと。
寺井ちゃんの事を考えていたんだ。