「快斗。具合はどう?」
部屋の入口の扉を開けると、オレがいるベッドまで歩み寄り顔を覗き込んでくる青子。
青子が持つトレーの上には、透明なグラスにお茶が注がれていて、その脇にはクッキーが添えられていた。
「うん、大丈夫。」
応えたオレに青子はほっと息を吐いた。
組織に連れ去られた後、拷問といっても過言ではないほど過酷な日々を送り、あのライバルである名探偵に助け出された。
それからずっと。
家も学校も。
オレ達の居場所すべて奪われたオレ達は。
今は、名探偵工藤新一の邸で匿われている。
オレが奴らにやられた傷痕もかなりひいて、体は順調に回復している。
ただ、心に負った傷はかなり根が深いらしく、オレはまだ何も動き出せずにいる。
名探偵以外の、この屋敷の中の住人に会う事さえも今は苦しい状況で。
「クッキー、青子が作ったのか?」
「うん。昴さんが教えてくれたから。」
「昴さん・・・。あの大学院生か。」
青子の話を聞きながらオレはクッキーを指先で摘まみ口の中に入れる。
ほど良いバターの風味が口の中で広がり、それは文句なしに美味かった。
「美味しい?」
「うん、すげぇ美味い。」
「良かった。」
途中でお茶を飲みながらクッキーをほおばるオレに、青子が柔らかく微笑む。
「そういえば、今はね、外は毎日35度越えの物凄い猛暑なんだって。全然雨が降らなくて、みんな異常気象だねっていってるらしいよ。」
「そっか。」
頷いたオレに青子は少しだけ顔を上げると呟く様に言った。
「プール・・・行きたかったな。」
その言葉にオレは手を止めると青子を見つめる。
「プール?」
「うん、プール。あっつい日にプールに入ったら気持ちいいだろうね。」
青子はそう口にすると、ハッとした顔をしてから、首を横に振って苦笑する。
「ううん、なんでもないよ。ゴメンね、気にしないで。」
青子のその言葉にオレは手を止めると、目の前にいる青子を見つめた。
「思い出した。」
「えっ・・・?」
声を上げた青子にオレは少しだけ顔を寄せる。
「去年も言ってたよな、青子。オレに、プール行こう・・・って。」
オレはその時の事を思い出しながら言った。
あれはちょうど、シンガポールでキッドの偽の予告状が出されて、名探偵を連れてそれを仕掛けたヤツを見つけるついでに、ビッグジュエルもいただこう・・・と、シンガポールに行った後の事だ。
帰国したオレが自宅で青子の電話を受けると、その直後家を訪ねてきた青子に「プールに行こう!」と、唐突に誘われたのだ。
「ゴメン、ずっと忘れてた。」
そう白状したオレに、青子が頭を振る。
「いいよ、別に。そんな、いつもの事じゃない。」
ごまかして笑おうとする青子に、今度はオレが首を横に振った。
「あの時、オレも青子とプールに行きたかった。けど、行けなかった。」
「快斗・・・。」
呼び掛けた青子にオレは顔を伏せると、無言でシャツのボタンを上から外して上着を脱ぎ始めた。
「えっ・・・?」
戸惑いの声を上げる青子の目の前で、オレは左肩を出すと、顔を上げて青子に言った。
「これ・・・。あの、シンガポールに行った時、現地警察で撃たれたやつ。」
数か所銃弾の痕が残るオレの体を見て、青子は目を瞠った。
「快斗・・・。」
「だいぶ薄くなって来たけど。」
そう言うとオレはわずかに視線を逸らし溜息を吐いた。
「青子と一緒にプールに行ったら、この傷が青子にバレるかも・・・って思って。だから、行けなくて。しかも、あの時オレ、青子にかなり酷い事言ったよな。」
そう言うと手を伸ばして青子を抱き寄せたオレの胸許で、瞼を閉じた青子の頬に涙が伝う。
「オレも・・・青子とプール行きたかった。なのに、今年はプールどころか、ここから一歩も外に出る事さえ出来ないんだからな。」
苦笑いしたオレは、青子を腕に抱いたまま強く唇を噛み締めた。
全部オレのせいだ。
オレのせいで、すべてを奪われ、青子も巻き込んで・・・。
悔しさにオレは俯き唇を噛んだ。
青子もオレも。
しばらくお互いに何も言えずにいた。
それから、青子がゆっくりと顔を上げてオレを見つめる。
「いいんだよ、快斗。」
「青子・・・。」
呼び掛けたオレに青子は指先で涙を拭った。
「あの時ね、青子の気持ちが快斗に届かない・・・って。そう思ったのが悲しかったの。でも、今は、届いたんだよね。青子が快斗を大好きだって気持ち。」
その言葉にオレは目を見開く。
「青子は快斗が大好きだから、ずっとそばにいたいって気持ち、快斗に届いたんだよね。」
オレはわずかに瞼を伏せると微笑して頷く。
「ああ、もちろん。」
応えると、オレはもう一度青子を胸に抱き寄せた。
「それなら、オレの気持ちも、青子に届いてるよな。」
オレはそう言うと、青子を抱く腕に力を込める。
「青子が好きだから。青子が必要だから。だから、青子にそばにいて欲しいんだって・・・。その気持ちも、間違いなく、今青子に届いてるんだよな。」
「うん、届いてるよ。大丈夫。」
応えた青子が、涙声で微笑を浮かべる。
そんな青子に頷くと、オレは青子に唇を重ねた。
オレの気持ちは青子に絶対に届かない・・・って。
そう思ってた。
その気持ちが届く。
そんな奇跡が起きたのだから。
いつかきっと。
すべてを乗り越えて、青子と二人で生きられる。
そんな奇跡も、起こるのかもしれない。
だって、パンドラの箱を開けてしまったオレの手の中には、ただ一つ。
青子という希望が残されているのだから。
だから、いつかきっと・・・って。
オレはやっぱりそう、心から。
願っていたんだ。