「快斗。」
青子は扉を開くと、そこで真剣な表情でパソコンのキーボードに指を滑らせながらモニターと向かい合う快斗の背中に向かって名前を呼んだ。
その瞬間、指の動きが止まり、後ろを振り返った快斗が小さく息を吐いて青子に視線を向ける。
今、この瞬間。
この世界の中でただ一人、心を許せる相手。
無防備な自分を曝け出せる唯一の人。
「青子・・・。」
快斗は静かに名前を呼んだ。
青子はそれに応える様に柔らかい笑みを浮かべると、扉を閉じて、快斗の元へ歩み寄る。
快斗の元に辿り着いた青子を、立ち上がり腕を伸ばして抱き寄せる。
それから自らを落ち着かせるかの様に何度か深く息を吸い込んだ。
緊張状態が続く中での僅かな安らぎの時間。
青子は何も言わずに、自分よりもひと回り大きな快斗の背中に手を伸ばして抱きしめた。
「お父さんが学校に休学届け出してくれたって。快斗の分も。」
「そっか。警部は・・・?」
頷きながらも心配そうに問い返した快斗に、青子は笑みを向ける。
「警視庁に隣接してる寮から通うから心配いらないって。」
「・・・そうか。」
快斗が頷きながら青子を抱く腕に力を込める。
キッドの正体が敵対する組織にバレている。
その組織は今も快斗の命を狙っていて、快斗にとって一番身近な人達である寺井と警部。
そして、誰よりも大切な青子を拘束する事で快斗を意のままに操り、心も体も死の淵に立たせようと、今この時も動き続けている。
だからもちろん家に帰る事も出来ないし、学校に行く事も出来ない。
もし快斗が学校に姿を現せば、あの中にいる何百人という人間を全て人質に取られる事になる。
快斗は止む無く休学を決めて、本来であれば敵でありライバルであるコナンの計らいにより、阿笠邸で青子と二人匿われる事になった。
コナンがいうには、ここ以上に安全な場所は無いという。
その意味は快斗にはわからない。
当然のことながらコナンは探偵事務所に居候中の為、上にいるのは発明家の博士と、コナンと同じ事情があると思われる少女が一人。
超兵器が仕掛けられているわけでも無いし、腕っ節の強いボディガードがいるわけでも無い。
それでもあの名探偵がそういうからには、何か理由があるのだろうと思う。
「寺井さんの姿が見えないの。」
青子が心配そうに呟く声に快斗は切なげな表情で微笑む。
「寺井ちゃんなら大丈夫だよ。ちょっと調べ物を依頼してるんだ。だから、それが終わったら必ず戻ってくるはずだから。」
快斗の言葉に青子が頷く。
快斗は少しだけ胸の奥が痛むのを感じた。
調べ物を依頼したのは本当の事だけど、実際には快斗には守りきれない寺井にしばらく身を隠す様に伝えた事も事実。
だからこそ寺井はここから姿を消した。
快斗には、今、寺井がどこで何をしているのかもわからない。
今この瞬間、無事でいるのかどうかさえも・・・。
「ゴメンな、青子。」
快斗が青子を抱き締めたまま耳元で囁く。
「オレのせいで家にも帰れねーし、学校にも行けなくなっちまって・・・。」
「快斗・・・。」
快斗は青子の背中を強く抱いて言った。
すべて自分が招いた事だった。
父の死の謎を解く為に怪盗キッドになり盗みを繰り返した。
そして、組織に宣戦布告して、不覚にもその組織に正体を知られ、その結果、大切な人達の身を危険に晒して、自分自身はこの阿笠邸から一歩も外に出る事が出来なくなってしまった。
キッドのパートナーである寺井もいない。
外国にいる母に連絡を取る事も出来ない。
誰よりも今、一番頼りたいと思う父は、八年前に既にあの組織に殺されている。
コナンにも青子を守りたい一心でパンドラと組織に纏わる事情をすべて打ち明けたけれど、あくまでも探偵と怪盗の関係であって心を許して馴れ合う様な関係では無い。
もちろんこの家の主である阿笠博士と灰原哀という少女も。
今の快斗が唯一心を許せるのは青子ただ一人。
本来であれば、青子を手放すべきなのかもしれない。
そうすれば少なくとも、青子の身の安全は守れるはず。
それがわかっているのに、この手を離す事が出来ないのは、自分の我儘でしかない。
だけど、たぶんこの手を離してしまったら・・・。
「快斗。」
快斗の腕の中で青子が顔を上げる。
「青子はどこにも行かないよ。」
まるで心の声を見透かして、それに答えるかの様な言葉に快斗は目を見開いて青子を見つめる。
「行かないから。絶対に・・・。」
その言葉に快斗が頷きながら、青子の頬に手を伸ばす。
そして、顔を近づけると、静かに唇を重ねた。
パンドラの箱にはただ一つ、希望だけが残されていた。
だからこそ人はどんな絶望的な状況の中でも、諦めずに生きていける。
同じ様に、パンドラの箱を開けてしまった快斗の手の中に唯一残されたのが青子。
その青子という希望の存在によってのみ、今を生かされているから。
何があっても必ず前に進む為に戦い続ける。
ただそれだけを快斗は強く心に誓う。
暗闇に包まれたふたりだけの世界の中で・・・。