『知る』ということ | Infinite Connection

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私たちINCONNEは“教育の充実から国の充実へ”をモットーにしている関西最大規模の学生ボランティア団体です。ラオス南部のノンテノイ村に幼稚園と小学校を建設、現在はそれらの教育プログラムの充実と中学校建設、医療支援や道路整備を並行して活動中です。


あなたが最近買った服は何ですか?

それは、どこで、いくらで買いましたか?




少し思い出して見てください。


そして、その服はあなたにとってどういう存在ですか?
お気に入り? 特別なもの? 使い捨て?



というのも、最近私はある映画を見たからです。
それは「トゥルーコスト」というドキュメンタリー映画。
ファッション業界の真実を生々しく語った映画です。





『夕食の値段でスーツを買えるから、気兼ねなくスーツを捨てることができる』
といって、食卓の上にこぼしたコーヒーをスーツでふいて、そのままゴミ箱に入れる一人の女性。


一方でカメラに訴えるアジアの女性。
『服を作るのがどれだけ大変か、人は知りません。ただ買って着るだけ。でもその服は私たちの血でできています。』
そして最後に泣きながらかすれた声で彼女は言いました。


『私たちの血で作った者を、誰にも着て欲しくありません』





わたしはそのときはじめて、今自分が着ている服の重さを知りました。


綿の生産過程で使われる化学物質による健康被害。

革の加工プロセスで、有害物質により癌に苦しむ人たち。

多くの発展途上国で低賃金労働による搾取や、人権の侵害などの行為。



今自分が着ている服がどこから来ていることなんて考えたこともありませんでした。
裏の表示を見て【made in China】と書いてあれば、「あ、中国製か」と思うぐらいでした。
ましてや、その服がどのようにして、誰がつくったのかなんて論外でした。


安売りで買った1200円の服。
自分のご褒美にと、ちょっと贅沢をして買った10000円の服。
「今日は何を着ようか」と鏡の前でコーディネイトしながら、ルンルンの気持ちで着ようとしているお気に入りの服。

その服たちが、誰かの血と涙と憎しみでできているのかもしれない。
わたしの〝買う〟という一つの消費活動が、誰かの憎しみを生んでいるのではないだろうか。




この映画を見たとき、無責任ではありますが
『あぁ、知りたくなかったなぁ』
素直に思いました。

『私たちの血で作った服を誰にも着て欲しくありません』
あの少女の顔がやきつきました。



この世界は嫌になるほど矛盾だらけで、きっとまだ表向きになっていない問題も数多くあるはずです。
裕福な私たちのために、今日もどこかで誰かが泣いていて、血を流している。そして憎しみが生まれる。




こんな私に何ができるんだろう。



『エコな生活を…』
そんなこと分かってはいるけど、でもそれだけなのかな。
それが直接的な方法でなくても、遠回りだとしても、最終的には繋がっていることは分かっている。でも、もっとできることってないのかな。


そんなことを考えていると、なんとも言えないような、やるせない気持ちが押し寄せてきました。


知ったところで、どうせ私には何もできない。
そんな現実を突きつけられるくらいなら、いっそ知らない方がいい。
そのほうが楽だから。


そんなふうに考えていた時期もありました。
でもそのとき、この映画を作成した監督の言葉を思い出したのです。



〝罪悪感や重い気分を抱くための作品ではありません。見つめたことのない世界への招待状なのです〟



私は〝知る〟という行為の先にある〝責任〟から逃げていました。
その人の涙、悲しみ、憎しみを知ったところで、直接助けることはできないから、私は見過ごしました。
〝知る〟という行為を辞めたのです。
でもそれは見放したことと同じだったんだなあ。



最近阪急の岡本駅に行くことがありました。
そこで、ふと気になって入った服のお店は、フェアトレード商品を多く取り扱っていました。
壁に飾られてある綺麗な緑色の服を眺めていると、店員さんが来て、
『この服は、インドのオーガニックの綿100%でできていて、しかもフェアトレード商品なんです』
と話してくれました。
そこで渡されたパンフレットには、その店の説明だけでなく、フェアトレードの流れやインドで綿を作っている人々の生活が描かれていました。


映画を見た直後は、自分の消費活動が誰かの憎しみを生んでいるのではないか、ということしか頭にありませんでしたが、フェアトレード商品を購入することにより、生産者たちの生活向上により繋がるんだと感じることができました。

その店のパンフレットを手に取り、じっくりと読んだとき、もっとこの人たちの生活を知りたい!と思いました。



私は大学生になってから、ラオスにしかまだ行ったことがありませんが、就活が落ち着いたら、インドやそのほかのアジアの国に行きたいと思っています。
自分の知らない世界を、自分の目で直接見たいからです。



知ったところで何もできないくせに、なぜ世界をもっと見たいと思うんだろう。
知りたいと思うんだろう。


自分でも不思議だなぁとは思いますが、〝知らない〟から〝知る〟も大きなステップなはずです。
自分の足でその土地を踏んで、自分の目で見たからこそ、その〝次〟も見えてくるのではないでしょうか。
また日本でも“知る”機会はたくさんあります。
映画でも店でも、“知りたい”と思えば知れるところは、たくさん転がっています。
その“知る”という行為をするだけでも大きな意味はあると思います。


日々の生活のなかで、少し疑問を持ってみてください。


この服はどこでも作られたんだろう。
この靴の革は、だれが作ったんだろう。
このスマホの部品は?パソコンは?

そこから広がる世界は、あなたを悲しませるかもしれませんが、きっとそれだけではないはずです。
“知る”という行為をして、初めて分かることもたくさんあります。
世界を知ることも、よりよくすることも、どこかの国の問題を解決することも、わたしたち一人ひとりにカギはあると思います。


読んでくださり、ありがとうございました。

関西学院大学
3回生 廣利千早