私はとかくいい加減で面倒くさがりで陰険な人間なので、腹の底では全く別のことをおもっていても、口に出す言葉はたいてい肯定的な内容である。ブログでは散々文句を言っているが、これは別段特定の読み手を想定しているわけではないからで、「なにか」に対するメッセージではあり得ても、「誰か」に対するメッセージであることはあり得ない。

或いはまた政治や社会問題に対してもどちらかと言えば好悪がはっきりしている。これについては深入りしないが、以下は対個人を念頭に置いた放言である。

肯定の対義語は言うまでもなく否定だが、ラクなのは断然肯定だ。否定は先ず厄介なことに、その理由なり根拠なりを予め用意しておかなければならない。それを考えるのが億劫である。

しかも、その用意しておいた理由なり根拠が其の儘すんなり使えるかと言えば、これは相手のあることであるからそうたやすくはいかない。

次に反撥を覚悟しなければならない。特にネット上においては、特定の人間に対する否定を表明したつもりが、その周辺から予想外の攻撃を受けることも珍しくない。こうなると、もはや誰を相手にしているか分らなくなってしまう。五里霧中で、収拾がつかなくなる。

他方肯定は、少なくともその外観上に棘はないので、無用な刺戟を与えずに済む点がいい。加えて、肯定されて厭な思いをする人間は恐らくいないのではないかとおもう。

これは猫を見ていても瞭らかだが、「いい子だね」とか「可愛いね」と褒めたり煽てたりすると頗る機嫌がよい。然し、こちらの虫の居所が悪いときに「くさい」とか「寄るな」とかそういう言葉を浴びせると、途端に表情が曇り、生気が減じてくる。

人間も同じで、認められればそれに対して懐疑の念を抱くことはあるにせよ、生きていく希みが喪われてゆくような、悲痛な心持になることはないのではなかろうか。

就中ネットにおける文字だけのやりとりの場合など、常に〝何者〟かであることを匂わせる匿名性の中にあっては猶更である。

たとえば私のようなろくでなしが何か否定的なことをわめき立てたところで、実際面と向かって聞けば何ら痛痒を感じない場合でも、文字や声だけになると、又別のプレッシャーを与えないとも限らない。

こうしたことを考え合わせると、真の否定には月並みではあるけれど真心が不可欠で、それだけ手数がかかる。そういうものが欠落している上に冒頭述べたような性分の私は、今後も肯定一択でやっていこうとおもっている。

つまり、何が言いたいかと言えば、私の発する肯定的な言葉はアテにもクソにもならないという、只それだけを言いたいが為に、縷々瑣末なことを書き連ねただけである。

 

画像はTwitterにのせた肯定感丸出しというより馬鹿丸出しの写真