昨日YouTubeでゲーム音楽を特集したライヴ配信を視聴した。YouTubeライヴは初めて聴いたが、思いのほか音がよくてびっくりした。

デスクトップパソコンで、外付けのスピーカーも何も繋いでいないのに臨場感のあるリアルな音質だったからだ。配信側の機材のクオリティーだろうか(ライヴハウスからの配信だった)。

私はゲームは小学生時分と、オトナになってからはAmebaのゲーム(あれはゲームとは言わないとおもうが…)くらいしかやったことがなくて、ゲームにもゲーム音楽にも関心が薄い。

もっともパチンコはやるので、ゲームの魅力は何となくわかる気もする。両者の共通点を誤解を恐れずに言えば〝刹那的〟であるという点で、生産性がない。でもそれが却って心地いい場合があって、何でもかんでも〝余韻〟が付き纏う生活は鬱陶しくて仕方がない。

それはともかく、ライヴを聴いていて実にゲーム音楽は巧みだと感じた。奏者の技量や秀逸なアレンジで底上げされている分を差し引いたとしても、ああいう音楽が画面の後ろで流れていたら夢中になるのもわからないではない。

ワクワクドキドキ感が鏤められていて、思わず先へ先へ進みたくなってしまう。退屈しないよう、飽きないよう、常に気分が一定のテンションを下回らないようにできている。

他方で、あまりにも〝あってもなくてもよさそうなどうでもいい音〟がなさすぎて、稍気詰まりな気がしないでもない。

つくり手からすると〝どうでもいい音〟などない筈だし、「ふざけたことをいうな!」と叱られるかもしれないが、私のような譜面も読めない素人のきき手からすると、ある一つの作品を隅から隅まで退屈せず聴き通すことなど不可能で、必ずと言っていいほど「この部分はどうでもいいなぁ」と感じる箇所が出てくる。

それはクラシックで言うとマーラーやブルックナーの音楽にも当て嵌まるし、バッハのマタイ受難曲を聴いていている時ですら感じる。

ただ、そういう〝どうでもいい(と感じてしまう)〟部分を含めて成立している音楽から深い感銘を受けるのである。ゲーム音楽にそれがあるかと言われると、個人的には疑問符がつく。

そんな瑣末なことに思いを巡らせながらも、ライブは愉しかった。こういう形が定着すると、もしかすると今後会場へ出かけていって直接ナマの音楽に触れる機会は減るのではないかという、危ういことまで考えてしまった。

最後にさらにくだらないことを書いて申し訳ないが、音楽会は素敵な体験には違いないが、私の場合そこへ行って帰ってくる、つまりは電車やバスや地下鉄を乗り継いでというスタイルがあまりに現実的に過ぎ、音楽会の非日常との落差が年々負担になってきている。

コンサートが終わったらホール近くにとったホテルで、ワイン片手に余韻に浸って翌朝ゆっくり帰途につくような、そんなぜいたくができれば話は変わってくるのだが、夢のまた夢であることは言うまでもない。

 

※猫の写真は放言を中和する為に載せているだけで、本文とは何ら関係ありません。