ブログのタイトルは吉行淳之介のエッセイ集『やややの話」』の中の一編で、高名な禅僧の言葉だという。

これは前に書いたことだが、私の亡父は大変な癇癪持ちで、上機嫌でバンザイしていたかと思うと3分後には爆ギレするような気むずかしい人だった。吉行もエッセイの中で次のように書いている。

 

「気に入らない」ということは、しばしば起こっている。これは、その人の皮膚感覚とか生理に反射的に反発するもので、理屈ではない。(やややの話/文春文庫116頁より)

 

私は人からよく「温厚なんでしょうね」「穏やかですね」などと言われるがトンデモナイ話で、家人にいわせれば「一日の言動を動画に撮って見てもらいたい」ということになる。

これは紛れもなく亡父の血を引いているわけで、似なくていいところだけ似るのは世の常とは言え、よりによってそういう始末に負えない部分だけを忠実に引き継いでいるのだから話にならない。

少なくとも亡父にはそれに代わる人間的魅力が具わっていたが、私の場合絶無である。

そういえば今憶い出したが、札幌に住んでいる歳の離れた兄(ブログにも何度か登場している)が子供時分に動物図鑑を見ながらライオンの絵を描いていたら、当時まだ30代で血の気の多かった亡父が「ライオンはそんなふうに描くんものじゃない。こういうふうにだな…」と始めは穏やかに教えてくれていたのに、あまりにも飲み込みが悪いものだから終いには激昂しボコボコに殴られたそうである。

「それ以来オレは美術が心底イヤになったよ」と後年笑い話のようにぼやいていたが、その片鱗は加齢と共に円みを帯びた晩年まで健在だった。

もっとも、何事もギャップというか落差というか、そういうものが人間の奥行きを構成する一要素であることも確かで、感情の振り幅が大きいほうが〝人間的〟などという奇妙な言説もそれに加担している気がする。

要は気分屋だということで、当の本人には気にくわない明確な理由が存在するのかも知れないが、たいていは「そんなことで怒らなくても…」と呆れる話が大半である。

そう考えると私の嫌厭する『野焼き』などその最たるもので、近所の住人は気にも留めていないか「何だか外が煙たいわね」くらいで済ませるのだろうが、私はそうはならない。その意味では、コロナ禍の自粛警察を嗤えないのである。

 

 

爆ギレ3分前の父(故人)