今では到底信じられないことだが、その昔私は「素直」で「真面目」な人間だと言われてきた。

改めて付け加えるまでもないが、この〝言われてきた〟というニュアンスには、既にそれが過去のものであると同時に、他者の評価は常に自己評価と一定の距離を取る形で存在しているという、当たり前の事実を踏まえたつもりだ。

たとえば私は会う会う人に「ろくでなしです」とか「クズなんです」と言うが、少なくともそれに対して「そうですね」や「そうだと思っていました」と同調して下さる方はいない。たいていの場合「いえいえ」とか「いやいや」とか、そういう、つまりは「ナニヲオッシャイマスカ」的な軽い否定が返ってくる。

しかし内心「コイツ、めんどくさい奴だな」と思われていることは想像に難くなく、そうであれば寧ろ「新しい生活様式」に適った距離感が生まれ、却って望ましいのではないかとさえ考えている。

大体において人が人と対峙したときに、何かしらのポーズを取らないことはあり得ないので、それが自己肯定感丸出しの態度であってもその逆であっても一向構わないと思うわけだが、「好かれたい」「気に入られたい」といった媚びの出ることだけは何としても避けねばならない。

これを一度出してしまうと、薄っぺらく表面的な交流関係だけは無尽に拡がってゆくことになり、自分の時間を絶え間なく空虚なサロンに供出し続けねばならなくなるからだ。

それはあるいはどこかの局面で自己犠牲の崇高な精神にとって代わるのかも知れないが、私のような自己中心的な人間には考えも及ばない世界である。

そうはいっても、たとえ片隅であってもこの社会の中に籍を置いている以上儀礼的なるものから逃れることは不可能で、そこから一時的に退避するためにヒトは眠るのだろうとおもっている。そして、そこから永遠に逃れようと思えばもはや死ぬしかない。

然しながら更に厄介なのは、死んだ後にどういう世界があるのか(或いはないのか)ということを、自分の体験として持てないことは勿論、他者の死からさえも学ぶことができないというもどかしい現実である。

要するに全てが「生」を前提に組み立てられているので、その範疇における深浅や軽重は「経験」による差がモノを言うのかもしれないが、それ以降に関しては全くの白紙といえる。

そういえば、昔仲の良かった友人の座右の銘は〝いつまでも発展途上〟だった。

当時は「いつまでも発展途上のまま死んでしまったら、生きている甲斐がないじゃないか」と思ったものだが、人生の辻褄合わせには便利そうな「座右の銘」だと思うこの頃である。

もっとも、こんなつまらないことを考えながら、実際やっていることもAmazonから取り寄せた『ものまねマスク』の悪ふざけなのだから、何をか況んやである。