前にも書いたとおり、私は〝純粋〟という言葉が苦手である。嫌いといったほうがいいかもしれない。この言葉のタチの悪さは〝無垢〟や〝ピュア〟などいろいろな言い回しが存在することで、そのいずれもが同程度の濃度を保っているところが、私のもう一つのきらいな言葉である〝かわいそう〟を〝気の毒〟と言い換えた場合との違いだと思っている。

〝かわいそう〟を〝気の毒〟と言い換えた際の、自慰的ニュアンスの後退は明らかだが、〝純粋〟をピュアや無垢と言い換えたときには、その効果を認め難い。

以上は偏見に基づく個人的見解である。

ところで、なぜこれほどの〝純粋〟嫌いになったかを考えると、それだけははっきりしていて、中高時代に遡る。

当時同級生だったA君が頻繁に用いていたのが〝純粋〟とか〝ピュア〟という言葉で、私は彼がその言葉を向ける対象を見る度に、内心「嘘コケ」と思っていた。

その「嘘コケ」が軈て「嘘苔」となり、私の陰湿な思考の土壌で生長した、というのはセンスのない冗談としても、耳にタコができるくらいそれらの言葉をきいて厭気がさしたというのは本当である。

それはともかく、人間でいうと生まれてすぐの赤ん坊くらいにしか使いたくないこの言葉も、動物の場合は稍事情が異なる。

殊に寝顔となると、これはもう無条件に純粋とか無垢とかそういう言葉を連発したくなってしまう。考えてみれば人間も眠っている姿というのは、老若男女問わずまだ見るに堪えるものである。それは、川端康成の名作「眠れる美女」を引き合いに出すまでもないだろう。

我が家の同居猫も、此方のキゲンの悪いときにミャーミャー鳴いてはいつも八つ当たりの餌食になっているが(このあたりが犬との違いで、ネコは基本的に空気を読まない)、寝ている時の顔はこの世の美しいものの五指に入るのではないかと思うほどである。

それにしても、我が家の猫はほんとうに不幸せだ(歴代も含め)。家人には「アナタはネコにかぎらず動物と暮らす資格はないから、サブ(今いるネコ)を最後にすべし」と厳命されている。