昨日1パチの花の慶次 「蓮」を打ちに行ってきた。結果を先に言うと、案の定散々だった。或いはそういう気持で行くからこういう結果になるのかもしれない。

当たりを見るための費用は4,800円。当然のことながら確変にも入らず、時短も何のドラマもなく終了。これならパチンコ屋の隣のいきなりステーキで飲食したほうがよほど生産的だった。因みに隣の台は、これもお約束の光景ながら確変にもすんなり入り順調にアタリを重ねていた。

こういう光景の後者の側には一向身を置けないので、違う機種が並んでいるバラエティーコーナーに普段は座ることが多いのだが、新台の場合そうもいかない。

同じ機種を隣り合わせで打てば『差』が出てくるわけで、その『差』がいかなる仕組みで生まれているのかもわからないのだから募るものは不信感と僻みしかない。

しかし初打ちでこうも厭な思いをすると、もう1円で打とうという気すら起こらず0.5円に流れてくるまで心置きなく待つことができる、などと負け惜しみを並べてみたところで侘しいだけである。

こういう日は帰宅してショスタコーヴィチの交響曲第4番あたりをかけながら鬱憤晴らしをするのが常であったけれども、昨日はマーラーの交響曲第9番にした。あの何とも言えない戯けた寂寥感と真性の淋しみとが同居した不思議な曲を聴きながら、このくだらないクソ人生に思いを馳せようという趣向である。なぜこんな人生になってしまったのか。

それはともかく、「花の慶次 蓮」は私が好きだった「真・花の慶次」の雰囲気とは全く違っていて、後続の「真・花の慶次2」や「雲のかなたに」といった機種の影響を色濃く感じさせるものだった。

糠喜びとわかっていても思わず期待してしまう金襖の向こう側に広がる右肩下がりの演出にはいつもガッカリさせられるが、今回のそれは今まで以上に閉口だった。もっとも、一度きりの初打ちで何が分かるわけでもないだろうが。

台枠から突き出ていた槍の役物は可動式かと思ったらそうではなくて、色の変化を愉しむだけの添え物だった。役物もボタンも無風流で、天運ボタンや梅鉢紋役物が懐かしい。

これらの感想はしかし、初打ちが不首尾に終わった為の八つ当たり的批判にすぎない。いい思いをしていれば、讃辞が並んだことだろう。

それにしても、いつも感じることだがパチンコ屋のトイレの鏡に映る自分の顔ほど醜いものはない。あれは紛れもなく犯罪者になる前のそれである。