私はベートーヴェンの熱心な聴き手ではないので、以下は個人的好みをもとにした大雑把な雑感である。

まず私がベートーヴェンの熱心な聴き手でないと自分で思う最大の理由は、ベートーヴェン愛好者が必ず聴くであろう一連の弦楽四重奏作品を全く受けつけないところに因っている。

弦楽四重奏曲ほどではないが、32曲に及ぶピアノ・ソナタにもさほど関心がない。時おり聴くのは8番「悲愴」、14番「月光」、17番「テンペスト」、21番「ワルトシュタイン」といった表題付の有名曲だけ。あとは一番最後の32番ぐらいで、CDだといわゆる4大ピアノ曲集とか、そういうタイトルで出ているものと最後の3つのソナタ集(30-32番)の2枚があれば十分。寧ろバガテル集や創作主題による32の変奏曲のようなピアノ・ソナタ以外のピアノ作品のほうが好きかもしれない。

9つの交響曲はどれを聴いても聴き通せてしまうところは凄いと思う。同じ9曲というとドヴォルザークが思い浮かぶが、迚もベートーヴェンのようにはいかない。途中で飽きて止めてしまう曲が出てくる。ベートーヴェンの場合、それがない。

9つある交響曲のうち新旧の気に入り曲をあげるとすると3番「英雄」と6番「田園」で、前者が以前好きだった曲、後者が今好きな曲ということになる。

ところで全く話は逸れるのだが、先日新聞をパラパラと捲っていたら村田喜代子の新年随想が掲載されていて、冒頭日課の散歩について書かれている箇所に「気に入りのタブやカシの木にニックネームをつけて…」という一節があり(1/12毎日新聞西部版より)、これまで私はこういう場合「お気に入りの…」と書いていたけれども、高名な作家が「気に入りの…」と書いているのを読んで真似てみたのだが、どちらが正しいのだろう。

ヤフーの知恵袋あたりをみれば、文法的な側面から懇切な回答が載っているかもしれない。恐らくどちらも間違いではなく好き好きなのだろうが、気になって仕方がない。日本語はむつかしい。

話を戻す。「田園」は天気のいいカラッとした日の朝に洗濯物を干しながら聴けばまず間違いなく幸福感に浸れる曲で、第4楽章は激しい曲調だが、これは急な俄雨への警鐘として聴いておけば急変への備えもバッチリである。

「英雄」が音楽に無理矢理引き摺り込まれる感じだとすると、「田園」はスッと引き込まれる感じで印象もずいぶん異なる。

序曲集などの管弦楽作品(エグモントやフィデリオなど)は序曲というだけあって総じてドラマティックだが、肝心の本編というか、その先に続く物語を識らないので深く聴こうという気にどうしてもなれない。

忍び寄るようなティンパニの出だしが印象的なヴァイオリン協奏曲には特に思い入れもなく、10曲あるヴァイオリン・ソナタは第5番のようなおよそベートーヴェンらしからぬ旋律美にあふれた作品には魅力を感じつつも、他は殆ど馴染みのない曲ばかり。

ピアノ作品同様、ここでも2曲ある「ロマンス」(ヴァイオリンと管弦楽のための)のような小ぶりの作品のほうに惹かれる。

5曲あるチェロ・ソナタと、CDだと大体そこにいっしょに入っている変奏曲(魔笛の主題による変奏曲とマカベウスユダの主題による変奏曲)も古い録音を1組だけ持っているが、参考音源程度(何かの拍子に聴いてみたくなったときにないと困るので)。

何の考えもなしに綴っているので順番がごちゃごちゃになっているが、同じく5曲あるピアノ協奏曲のほうは結構好きで、以前は第5番(皇帝)ばかり聴いていたが最近は若い1番や2番に惹かれる。

以前ブログに書いた合唱幻想曲はベートーヴェンの作品のなかでは内容に乏しい作品というレッテルを貼られていて、事実その通りかもしれないが個人的には第9よりも好きである。曲が小洒落ていて、気軽に聴くことができる。

ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲は昨年買ったワルターの77枚組のボックスに入っていた音源で曲自体を久しぶりに聴いたが、厭ではなかった。でも長い。

そしてベートーヴェン自身が最大の作品と言っていたらしい「ミサ・ソレムニス」。バッハのミサ曲ロ短調やマタイ受難曲にも比肩しうる作品としてとにかく絶讃の声しか聞かないが、私にはどうにも良さが分からない。

作家の吉行淳之介が書いた文章に「ベートーヴェンの面白さは、飯の中に小石を嚙み当てたような蕪雑な部分につづいて、思いもかけぬデリケートな部分が現われてくるところにある」(「わたくし論」より)というのがあって、ベートーヴェンの音楽をこれほど簡潔且つ的確に捉えた文章を私は他に知らないが、ミサ・ソレムニスなどはまさにそのような音楽ではないだろうか。

ゴツゴツした厳めしい相貌を見せていたかと思うと慈しむような美しい音楽がどこからともなく舞い降りてくる。なかなか一筋縄ではいかない、嚙めば嚙むほど味の出る作品なのかもしれないが、その境地に行き着くまでにはまだ当分かかりそうで、その前に作品自体への興味を失わないか気懸かりである。