12月に入るとクリスマス・アルバムの出番である。我が家の定番はアンディ・ウィリアムスとビング・クロスビーで、1日1回はどちらかのアルバムをかける。

音楽はいちばんお金のかからないインテリアで、CDラジカセさえあれば部屋が一変する。茅屋を贅沢な雰囲気に塗り替えてくれる。勿論いい音で聴けば音楽は豊かさや深みを増すが、曲の輪郭まで変わるわけではない。100万円のオーディオセットでも3万円のコンポでも5000円のラジカセでもアンディ・ウィリアムスはアンディ・ウィリアムスでビング・クロスビーはビング・クロスビーなのだ。

私はパチンコホールでさえ常に台の音量をマックスにしないと打つ気にならない。席に座るやいなや音量を最小に絞ったり耳栓をして打ち始める人を結構見かけるが、音が聞こえなくて楽しいのだろうか?耳に良くないと分かっていても、大音量で打つシンフォギアや慶次はやはりこたえられない(出れば尚良し)。

しかしそう言いながら、ここ数日パチンコ屋へは出掛けていない。今年も散々厭な思いをして1年の締めくくりにさらに不愉快になりたくないというのもあるが、77枚組のワルターのボックスを日に4,5枚ずつ聴いているとあっという間に夕方で、日が落ちるのも早いのでもう家から出たくなくなるのである。

そんなわけで近所の図書館から本を借りてきて品行方正な日々を送っているが、その中の1冊鶴我裕子の「バイオリストは弾いてない」は面白い。この人の「バイオリニストは肩が凝る」もよかった。エッセイは小説以上に書き手を選ぶような気がする。

書きすぎると嫌みになるし、かといって踏み込みが弱いと途端につまらなくなる。彼女のエッセイはそのあたりの匙加減が絶妙だ。

このまま静粛な暮らしを続け、何事もなく年が越せればまずは御の字である。

というのも、私の父方の祖母は12月29日、父は1月3日がそれぞれ祥月命日なのだ。

「年の瀬の気忙しい時期に全くお騒がせな婆さんだ」と祖母が亡くなったとき(しかも失火だったので)迷惑千万という顔をしていた父も、正月3日に趣味のハンティングから戻らず文字通り帰らぬ人になってしまった。

どちらもいわゆる慌ただしい死である。とにかくクリスマスが終わったあたりから正月明けにかけては用心しなくてはいけない。といっても、生き死にだけは選べない。せめて車に轢かれないよう気をつけることくらいしかできないが、事故は自分が悪くなくても起きる。