まったく予想だにしなかった……と言えば、嘘になる。
 彼が密かに想ってくれていることは、もう何年も前から何とはなしに気付いてはいた。
 不意に振り向いたときに出会う彼の目の熱っぽさ、その目をそらす不自然さ、そして彼女の望むところ望まざるところすべてをのみこんで、昼夜を問わず支えてくれる献身。
 それらに毎日触れながら、気付かずにいる方が無理というものだろう。
 だが彼女は、あえてそれらに気付かぬふりをし、たがいに子どもの頃から何ひとつ変わらないかのようにふるまってきた。
 彼の気持ちに応えることができない以上、自分が取るべき道はそれしかない、と思っていた。
 それが彼の気持ちを踏みにじり、追いつめていたとも知らず。

 じきにばあやが灯りを持ってくる。
 寝室の薄闇のなか身を起こすと、ブラウスを脱ぎ去り手近にあったガウンを羽織った。
 ブラウスを手に、暖炉へと歩み寄る。
 激情のままに彼が裂いたブラウス。
 それを炉床に落とすと、見る間に炎に包まれ布はくるくると丸まり縮れて黒い塊になった。
 そのさまを見やりながら、ふとくちびるに手を触れる。
 彼のくちびるが押しあてられたところが少し腫れ、熱をもっている。

『愛している!』

 腕をつかんで離さない彼の手の強さ、首すじにかかる熱い息、組み敷かれ逃れられないと感じたときの恐怖と絶望。
 それらすべての感覚が甦り、オスカルは思わず自分の肩を抱き、炎の前にうずくまっていた。


 その夜の晩餐の際、彼は姿を現さなかった。
 常ならば給仕役を務める彼がいないことを誰も質さないのに違和感は覚えたが、昼間のこともありオスカルは少しばかり安堵していた。
 皆の前で普段通り何ごともなかったかのように彼と顔を合わせる自信はなかった。

 何を食べても味のしない晩餐の後、自室の暖炉の前で膝を抱えて座りこみぼんやりと炎を見つめていると、ドアをノックする音が響いた。
 いつもなら彼がショコラを携えてくる時間だが、その音は彼のノックの音とは違う。
 不審に思っていると、部屋付きの侍女が入ってきて告げた。

「オスカルさま、おやすみ前のショコラをお持ちしました。まぁ、こんな薄暗いお部屋で……」
「……アンドレは?晩餐のときにも姿を見なかったが……」
「あら、オスカルさまはご存知なかったのですか?アンドレは昼過ぎに、ラロシェルのご別邸へ参りました」
「ラロシェルへ?なぜ急に……第一、今あそこは無人だろう。何の用事があるというんだ」
「なんですか管理人もいないから不用心だ、浮浪者が入り込んだりしていたらいけないから見に行ってくると申しまして……執事さんも別に急いで行く必要はないと言ったのですが、どうしても気になるから、となかば強引に出かけてしまって」
「……」
「出がけにオスカルさまは毎晩ショコラをご所望になるから、と頼まれました。ついでにお屋敷内の整備などするからしばらく戻れないとのことでした。それでは、ごゆっくりおやすみなさいませ」

 ショコラは熱すぎ、甘みがひと匙足りなかった。
 ひと口飲んだそれを傍に置き、オスカルはまたぼうっと炎に見入った。
 彼が彼女に一言もなくそばを離れるなど、かつてないことだった。
 彼女が彼と顔を合わせづらいように、彼もまた彼女と顔を合わせるのを避けている。
 考えてみれば当然のことだ。
 彼が黙しているのをいいことに、その優しさに甘え続けてきた。
 あまつさえ他の男を恋する苦しみの癒しを彼に求めようとしたのだ。
 わたしの気持ちを知ったフェルゼンが決然とわたしを退けたように、わたしもまた、彼のためを思うなら、彼との間に距離を置くべきなのだろうか。
 炉床にのこる黒い灰の塊を見やると、手が自然とくちびるに触れた。
 くちびるに、首すじに、再び彼の熱い吐息を感じた。

 彼は今ごろ、どうしているだろう。独りで、遠く離れて。
 ふと去り際の彼の言葉が耳をかすめた。

『ああ……愛している 死んでしまいそうだよ』

         死 ん で

 まさか。
 急激に部屋の温度が下がり、思わず身震いした。
 肩に羽織ったガウンを胸の前で掻き合わせても、からだの震えが止まらない。
 まさか、そんなことが。
 思わず立ち上がっていた。ガウンが足元にわだかまる。
「アンドレ」
 暗闇に向かってその名を呼んだ。
「……アンドレ!」


 気がつくと馬房におり、自分の馬にまたがっていた。
 ラロシェルまで馬でおよそ三時間。見上げると月は雲に隠れ、あやしい空模様になっていた。部屋着にマントを羽織っただけの格好だったが、そんなことはかまっていられない。
「頼む、急いでくれ」
 彼女は馬に鞭をあて、走りだした。春の夜の冷たい風が頬を打つ。少し走るとすぐに手はかじかみ、そこへ始めはぽつぽつと、やがて勢いを増して雨が打ちつけてきた。雨はマントを通して部屋着を濡らし、からだの芯まで冷やしていく。
 荒涼とした湿地がどこまでも続くなか、彼女はひたすら走り続けた。
 こんな殺風景な場所を、彼も独りで走ったのだ。
 長い長い間、独りで耐え、押し殺してきた想いを拒絶され傷ついた心を抱えて。
 遠くで雷が鳴り響き、いっそう激しく雨が彼女と馬の行手を阻む。髪を濡らす雨の滴が目に入るのをこらえ、彼女はひた走った。
「アンドレ……!」


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ベルサイユのばら二次創作小説第15作め。2021年6月15日UP。

(アメブロでは文字数制限を超えてしまったので前編と後編に分けました)


闇に包まれた寝室でアンドレから激しい愛の告白を受けたオスカルさま。

この出来事、オスカルさまにとってはかなりの衝撃だったはず。

フェルゼンへの淡い恋が破れた直後に、信頼していた(ある意味油断しきっていた)幼馴染がいきなり男の顔になって愛を告げ、しかも激情に駆られてくちびるを奪い寝台に押し倒し……思いとどまったとはいえ、ふつうだったらおたがい気まずくてもう一緒にはいられないくらいの事件だと思います。

なのに、原作ではその後、なにごともなかったかのようにふたりの関係は続いていく。子どもの頃は、それが不思議でしかたがありませんでした。

その空白を埋めてみたくて考えたお話です。


後編UPの際に、わたしなりの解釈を書かせていただきたいと思います☺️