六月も末の宵。
アンドレは屋敷の庭園に通ずる使用人口の戸を後ろ手に音立てぬよう閉じると、ほっとため息をついた。
次から次へと用事に追われ、思ったより遅くなってしまった。
いつになるかわからないのは承知の上とはいえ、彼女はまだ待っているだろうか?
約束した庭園のはずれの一角へと足を急がせる。
初夏であっても日が暮れると夜風は冷たい。そんななかでひとり、自分を待っているかと思うと、気が急いてしかたがない。
ましてや自分のからだに無頓着なところのある彼女のこと、万が一眠ってしまって風邪でもひいたら大変だ。
いつも通り部屋での逢瀬ならば、待ちくたびれて眠ってしまったとしても、安心していられるのだが。
『庭の奥に東屋があるだろう。今夜はそこで待っている』
『東屋?夜は冷えるぞ。あそこは支柱組みで壁もないし、寒くないか?』
『壁がないからいいんじゃないか。とにかく待ってる』
いつもながらの一方的な宣言に、これまたいつもながらしょうがないなと肩をすくめて応じる自分。
彼女がそうしたいというのなら、できる限り応えてやりたい———薔薇色のくちびるがほころぶのを見たい。長年の想いの集積。病膏肓に入る、とはまさにこのことだろう。
そんなことを考えながら歩くうち、さやさやと鳴るジューンベリーの葉陰に東屋が見えてきた。
と、急いでいた足が止まる。
彼女がこちらに横顔を見せ、柱のひとつに身をもたせかけていた。
オリンポスの神殿風につくられた白亜の建物———そこに黄金の髪をきらめかせ、深い湖水のような碧い目を夜空にむけて物憂げに佇む彼女。
十六夜のもとで、その姿はみずから醸す光でほんのりと白んでいるかのように見えた。
この世ならぬものを見ているような錯覚にアンドレが思わず手近の枝をつかむと、その音に彼女が反応した。
「アンドレ!」
破顔してこちらへ駆け寄ってくる。
飛び込むようにアンドレの胸に身をあずけると、満足した猫さながら顔をぐいぐいと押しつける。
「待ちかねたぞ!」
「すまん、なかなか用事が終わらなくて……そんなブラウス一枚で、冷えただろう」
「なんてことはない。それよりも……ほら」
空を見上げる彼女の目線を追うと、満ちた月のまわりを二重三重の淡い光が取り巻いていた。
さながら月光の残響だ。
「これは……?」
「月暈だ。満月のあと、雨の前触れとしてまれに見られるらしい。午後から少し空気が湿っていただろう?もしかしたら今夜あたり現れるんじゃないかと思って」
冷たいようであたたかく、もの皆すべてを癒すかのようでいて濃い影を浮き彫りにする月の光が、常よりもあかるくふたりの上に降り注いでいる。
ああ、それで……彼女から光が発しているように見えたのだ。
冷えているからだに自分の上着を脱いで着せ掛けよう、といったん身を離すと、不満げな目で追いすがる。
それでも上着で包んであらためて抱きしめると、ふだんは強い光を放つ彼女の碧眼が緩み、ふたたび燐光をまとう月を見上げた。
「美しいだろう?幸せの兆しという言い伝えもあるそうだ」
そしてまた、彼女の目が彼の視線をとらえ淡く微笑む。
「だから、おまえとふたりで見たかった」
アンドレは目眩を覚え、思わず目を閉じた。
愛おしさに息がつまりそうになる。
「オスカル、おれは……」
「うん?」
「おれは、正気なのか?」
「は?何を言い出すんだ?」
「おれは、おまえに恋い焦がれるあまりに気が狂って、都合のいい妄想に囚われてるんじゃないか」
呆気にとられた顔でアンドレを見ていたオスカルは、盛大に吹き出した。
「何を言うかと思えば……まったくおまえときたら!」
ひとしきり笑ったあと、オスカルはアンドレの頬に自分の頬をすり寄せささやいた。
「愛している。夢でもないし、妄想でもない。その証拠に、ほら……こんなにあたたかい」
「オスカル……」
月光のなか、ふたつの影が重なりしばらくして名残惜しげに離れた。
アンドレの腕のなかで、オスカルがか細く呟く。
「長い間、待たせて……苦しませてしまったな」
「充分報われているさ」
「もし……」
「ん?」
「もしわたしが本当に男だったら、苦しまずにすんだか?」
アンドレはくすりと笑い、彼女の髪の香りを胸いっぱいに吸い込みながら言った。
「それは困る!道ならぬ恋にますます苦悩することになってたな」
「あきれたやつだな!なんでもいいのか、おまえは」
「いいとも」
笑いながら腕のなかで身をよじる彼女を、また強く抱きしめる。
「おまえでありさえすれば」
彼女の頬が薔薇色に染まり、彼は彼女の細い腰を引き寄せた。
ふたりの恍惚を見つめるものは、ただ十六夜の月暈ばかり。
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ベルサイユのばら二次創作小説第13作め。2021年5月20日UP。
想いが通じ合ったあとの、躊躇なくアンドレに甘えるオスカルさまがとっても好きです💖
男社会の中でずっと気を張って生きてきたオスカルさまが唯一安心してすべてをゆだねられる安息の場所、アンドレの胸。
アンドレもそれはちゃんとわかっているんだけれども、片恋の時が長かっただけにやはりどこかまだ信じられない心地でいたのではないかな、と思います。
月暈は一度だけ、高原でのキャンプの際に見たことがあります。空気のきれいな高地ではとてもくっきりと見えていくら眺めていても飽きませんでした。
200年前、彼らが見上げた夜空はきっと今よりも澄んでいて、よりいっそう美しく幻想的だったことでしょうね。
夜空を見上げて月を眺めたり星座を探したりするたび、ふと『この空をあのふたりも見ていたんだろうな』と彼らに思いを馳せ、また妄想の世界に浸ってしまいます🌟