蒸し暑い風が、窓から甘い香りを運んでくる。
バルコニーの下に繁る月下香の花の香りだ。
気だるさをもよおすその濃密な香りを、わたしは深くすいこみため息とともにはきだした。
就寝前の用事を済ませた侍女が退出したあと、アンドレがショコラを持って部屋に来るのを待つのが日課だ。
長い間繰り返された日常の習慣だが、たがいの思いが通じあってからは、その時間の待ち遠しいことといったら、自分でもおかしくなるほどだった。
朝から晩まで衛兵隊でもずっといっしょにいるというのに、今この時も彼に会いたくてたまらない。
今日はまたいちだんと遅いではないか?
衛兵隊での仕事のあとも屋敷の用をこなさねばならない彼の大変さはわかってはいるつもりだが、待ち遠しさに切なさがつのる。
手にとってみたもののまったく頁がすすまない本を閉じ、長椅子にごろりと転がった。
「アンドレ……」
そっと、待ちわびる彼の名をつぶやいてみる。
「アンドレ……アンドレ……」
目を閉じて、芳醇な葡萄酒を舌の上で転がすように、彼の名を味わう。
アンドレ……なんと甘美な響きの言葉だろう!
二十年以上もこの名を毎日口にしてきたというのに、どうしてわたしは今までそのことに気づかずにいたのだろう。
「アンドレ……アンドレ・グランディエ……」
歌うように、ささやくように。
わたしのくちびるからこぼれでたその名が少しずつこの部屋に満ち、わたしのからだをとりまき、彼の名にすっぽりとつつまれるような陶酔に満たされてゆく。
彼の名がわたしを酔わせる。
早くここへきて、わたしのそばへ。
あの静かな光をたたえた黒い瞳を見つめ、あたたかい腕のなかで、彼の名をささやきかけたい。
日ごとに深くなる愛慕に自分自身とまどうほどだ。
「アンドレ……ああ……わたしの……」
「呼んだか?」
いきなり名前の主の声が背後からふってきて、わたしは文字どおり飛び上がった。
長椅子から転げ落ちそうになりながらもかろうじてこらえてふりかえると、ショコラのトレイを手にした彼が、ぽかんとした顔で立っていた。
聞かれた?!
思わず全身の血が顔に逆流する。
「ばっ……ばかやろう!いきなりノックもせずに入ってくるやつがあるかっっ!!」
「ノックなら何度もしたぞ?なのに返事がないし……眠ってるのかと思ったけど、なにかぶつぶつつぶやいてるみたいだったから……」
さいわい独り言の中身までは聞かれていなかったようでほっとしたが、胸の動悸はおさまらない。
長椅子の隣に座って差し出されたショコラを手にとるが、震えが止まらない。
「そんなにびっくりさせたか?悪かったな」
気遣うようにのぞきこまれたが、火照った顔を見られたくなくて、ふいと横を向く。
「怒ってるのか?オスカル……」
「……」
怒ってはいない。怒っているのではない……
気まずい沈黙が流れ、横で彼が小さくため息をつくのがわかる。
こんなはずではなかった。
彼の顔を見たら、話したいことがたくさんあった。
その手に触れ、あたたかい胸に身を寄せ、ふたりで夜の静寂にひたって……。
「疲れてるようなら、今夜は……」
「アンドレ!」
彼が立ち上がろうとする気配を感じ、思わずショコラを置いた手が彼の服のすそをつかんでいた。
「行かないで……ここにいてくれ」
「オスカル」
「疲れてなんかいない。怒ってもいない……ただ、早くおまえに会いたくて」
あれほど待ち続けた彼との時間を、つまらない意地をはって浪費したくはない。そう思うと自分でも驚くほど、素直な言葉がぽろぽろとこぼれ落ちた。
言葉といっしょに、涙までがこぼれてくるのをどうにも止められない。
「アンドレ、おまえが恋しくてたまらないんだ」
一瞬泣き笑いのような表情を見せたアンドレが、わたしの腰に腕を回してふたりして長椅子に倒れこんだ。
「オスカル……おれのオスカル……」
彼がささやいて、わたしの額に、睫毛に、それからくちびるにキスした。
彼の名をささやこうと思っていたのに、わたしの名がささやかれている。
それがなんだかおかしくて、ふっと笑いをもらすと
「よかった、笑った」
彼も微笑んで、わたしの髪をひとふさ手に取りくちびるを押しあてる。
「遅くなって、すまなかった」
「いいんだ、おまえが屋敷に帰ってからも忙しいのはよくわかってる。わたしこそ、意地をはって困らせて……ゆるしてくれ」
彼の大きな手を頬に感じ、その手をまたわたしの手が包む。
この手をどれほど待ち焦がれたことか。
「もっと早くここに来ておまえとの時間を過ごせるよう、仕事のやりくりを考えるよ」わたしの髪の先でわたしの鼻の頭をくすぐりながら、彼が続けた。
「待ってるあいだ、おまえが独り言でぶつぶつおれの名を呼ばなくてもすむように」
!!!
「おっ、おまえ……聞いて……!」
引いていた血流がまた一気に顔に逆流し、恥ずかしさに息がつまった。
そういえば、彼はわたしの背後に立ったとき『呼んだか?』と言ったではないか。
動揺のあまりそんなことにも気づかずにいた自分に、そして素知らぬ顔をしながら今さらながらそれを明かす彼に、今度こそ腹が立った。
「嬉しいよ、オスカル。おまえがそんなにおれを求めてくれる日がくるなんて、夢にも思っていなかった」
いたずらっぽく笑う顔が小憎らしく、彼の髪をつかんでわたしからくちびるを塞いでやった。
「わたしだってそうだ。おまえの名を口にするだけでうっとりする日がくるなんて、夢にも思わなかったぞ」
たがいに顔を見合わせ、どちらからともなくくすくす笑ってまた身を寄せあった。
あるかなきかの風が、月下香の香りをあたりに満たしていた。