———きた。
胸の奥がつかえたように一瞬息がつまり、激しく咳き込む。
乾いた咳が続いたあと、それはやってくる。
目に突き刺さるようにあかい、あかい———
鮮血が口を押さえた手を、息苦しさに堪えかねて倒れ込んだ寝台のシーツを染めていく。
熱い咳が喉を灼き、喀血の合間にひゅうひゅうと喘ぐように息をする。
少しずつ咳がひいてゆき、呼吸が落ち着いてくると、背中からじわりと冷汗がにじみでる。
初めて喀血を見てからのわずかな間に、坂道を転げ落ちるように状態は悪くなっている。
常にだるさを覚え、夕刻になると熱が高くなる。
からだの表面は熱っぽいのに、冷たい汗に震えて芯は凍えているかのようだ。
そして喀血の量と頻度も、日ごとに増している。
医師に問うまでもなく、直感としてわかる。
———わたしには、あまり時間が残されていない。
浅く息を吐きながら仰向けに寝転がり、寝台の天井を仰ぐ。
もしこの事が父上や母上に露見したら。
間違いなく否応もなしに退役させられ、この身は屋敷に留め置かれるだろう。
屋敷に置かれるのなら、まだいい。
療養のため、と田舎の領地———たぶんアラスあたり———に送られたら、パリの情勢を知ることもかなわなくなる。
武装した市民と国王の軍隊がいつ衝突してもおかしくないこんな時に?
衛兵隊の部下たちをのこして?
「アラスか……」
ふと、何年も前の出来事が頭をよぎった。
謹慎処分中の身でアラスへ視察旅行に出かけ、父上から厳しい叱責をくらった。
そう、あの時はアンドレも一緒だった。
「……アンドレ」
おもわず身を起こした。
わたしが望めば、きっと彼も共にアラスへ行ってくれるだろう。
軍の責務も何もかもおいて、ふたりで静かに日々を送る。
田舎の澄んだ空気を吸って、おたがいのことだけ考えて、身を寄せ合い、笑って、眠って、そして———そして?
看取らせるのか。
ぞっとして激しくかぶりを振り、一瞬とはいえ手前勝手な甘い考えに浸った自分を恥じた。
彼にわたしの最期を看取らせる。
そんな残酷な真似ができるわけがない。
彼はどれほど悲嘆にくれるだろう。
わたしを亡くせば、彼も決して生きてはいまい。
我が身におきかえてみればわかることだ。
たとえばわたしが、どんな形でか彼の最期を看取る———恐ろしい想像に、頭から冷水を浴びせられたかのように身震いした。
それは地獄の苦しみだろう。
ずっと彼を傷つけてきた。
静かに見守ってくれてきた片眼を奪い、他の男に想いを寄せ、あまつさえそれを隠さず、幼なじみとしてそばにいることを特権のように振りかざし、彼を翻弄して無数の傷を負わせてきたのだ。
心のどこかでは、彼に縋りたい。
あのあたたかく力強い胸に抱き寄せて、「大丈夫だよ」とささやいて欲しい。
だが、それはしてはならないことなのだ。
このうえさらに彼を苦しめるだろうことは。
だから、決してだれにも知られてはならない。
静かに寝台から降りると、鏡をのぞき口もとに付いた血を拭った。
そしてテーブルに近付きワインのグラスを手にとる。
繊細な玻璃が部屋の蝋燭の灯りを映し、冷ややかに燃えている。
それを振り上げるとテーブルに叩き付け、さらにその破片を左手で握りしめた。
鋭い痛みと共に流れ落ちる血を見つめる。
———これでいい。
うっかりグラスを割って手を切り、その血を拭こうとしてシーツを汚してしまった……稚拙な言い訳だがそれで押し通すしかないだろう。
そう考えると、我知らず苦笑がもれた。
わたしは生きねばならない。
安穏と臥して死を待つのではなく、自ら選び取った道を彼と手をたずさえ、生き抜くのだ。
最期の瞬間まで。