2022年8月15日の佐賀県の小城・厳木・相知の歴史散策レポの続き。
「小城公園・岡山神社・小城藩邸」の続き。
小城羊羹店・小城公園・岡山神社・小城藩邸(その2)のレポ
「小城公園」の園内を更に進むと、こんもりとした高まりがあるのですが、その手前には、石碑が何基も並んでいました。
石祠も並んでいて…
高まりに上って行くと…おお!朱の建屋が!神社のようです。
「大日尊」と刻まれた石碑。大日如来を指すようです。
こちらにも、石祠が!
朱の社殿に近づいて…稲荷神社のようです。
社殿手前の狛犬と石灯籠。
馬の石像もあって…
狛犬。
朱の社殿の前には、朱の鳥居が並んでいました。扁額には「烏森正一位稲荷神社」とあります。
朱の鳥居は更に並んでいて…
手水所。
朱の鳥居の先には、石段があって、その先には石の鳥居が!
「小城公園」を更に進むと、石碑・石仏が並んでいて…
忠魂碑もありました。
その先にも鳥居があって…
この日は、何やら式典があったようで、テントが張られていて、準備作業中でした。
更に進んで…こちらの高まりの前には、石碑と由緒書きがありました。
その由緒書きは、「岡花の歌碑」。
初代小城藩主鍋島元茂が植樹し、2代鍋島直能が増植した桜の花の見事さは、朝廷にまで聞こえるようになり、延宝3年(1675)には、後西院の御製歌や18名の公卿から御詠歌を賜り、直能は自身の歌一首を加え、道晃法親王から頂いた跋文(添え書き)とともに「八重一重」(別名「海外飛香」)と名付けた和歌集を作りました。
ここにある3基の歌碑には18名の公卿の他、直能が岡花を詠んだ和歌や道晃法親王の跋文が彫られていて、文字は中林梧竹の筆によるものです。
「岡花の歌碑」をじっくりと…。
文字が刻まれているのは分かるのですが、読むことはできませんでした…汗
こちらも「岡花の歌碑」のようです。
石段があるので、登ってみると…
そこには、覆い屋のある大きな石碑がありました。
脇の石碑には「後西院御製碑」とあって…「後西院」とは、後西天皇(ごさいてんのう))になりますね。正確には譲位した後の呼び名、ということになりますか。
由緒書き「後西院御製碑」
「岡花の歌碑」の由緒書きにあった通り、後西院から賜った御製を刻んだもので、明治8年(1875)地元の有志によって、小城公園の最も高い場所にあたる「茶筅塚古墳」の後円部墳頂に建立されました。揮毫は地元が生んだ書聖中林梧竹によります。
後西院御製
さく花に ましる岡辺の 松の葉は いつとなきしも 色をそへつつ
鍋島直能の歌
言の葉の にほひもそひて さきつづく 花にうれしき をかの辺の宿
覆い屋のある石碑に近づいて…こちらが、「後西院御製碑」になるんですね。
「後西院御製碑」に近づいて…
「後西院御製碑」のある高まりは、古墳だというので、周辺を歩いてみると、壺のような石像を発見。
その石像の脇にある由緒書き「茶筅塚[大正9(1920)年]」。
藩政時代、小城藩の作動は有楽流(千利休の弟子織田有楽斎の流派)に属し、小城初代藩主鍋島元茂は藩士村崎卜也(松風庵玄文)を京都四条の有楽斎弟子のもとに修行させ、免許皆伝の後、小城に戻った村崎卜也を中心に有楽流茶道は小城藩の茶道流派となり、代々村崎家が家伝としました。
8代目村崎卜斎の時、廃藩となり茶道職が廃止となって、子の村崎宗宏は官に就き東上した為、門弟城島徳斎が流派を継承。
徳斎は宗嘉といい、華道、和歌にも堪能であり、有楽流茶道の再興に尽くしました。
この茶筅塚は、徳斎の弟子其楽斎が百数十個の使用済の茶筅をここに埋め、茶筅型の標石を建立したものです。
壺じゃなくて、茶筅だったのか(^^;
「その4」に続く。
小城公園・岡山神社・小城藩邸
佐賀県小城市小城町185
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