日本橋本町の歴史的建造物・石町時の鐘跡・夜半亭跡・長崎屋跡・宝田恵比寿神社 ~東京都中央区の史跡 | 九州下町おやじの珍道中

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20188月下旬。仕事で、日本橋本町方面に出かける用事がありまして、仕事帰りに、またまた歴史散策して来ました。

 

 

日本橋室町から日本橋本町にかけては、古いビルが結構残っているんですよね。

 

山梨中央銀行東京支店のビルも結構古そう♪

千代田区観光協会HPによると、「旧第十銀行東京支店」だそうです。

 

 

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【千代田区景観まちづくり重要物件】1929(昭和4)年 設計 徳永庸

1874(明治7)年に開業した「興益社」が前身で、その後、1877(明治10)年に我が国9番目の国立銀行「第十国立銀行」となり、1897(明治30)年に私立「第十銀行」となり、1941(昭和16)年に「第十」「有信」の2銀行が合併し「山梨中央銀行」が誕生して現在に至っています。

当初はファサード(正面)にイオニア式オーダーの列柱などが見られたといいますが、戦災などをくぐりぬけ現在の簡素なデザインとなりました。昭和初期の銀行建築の典型的なスタイルです。

現在の建物は1929(昭和4)年に竣工しましたが入口空間や内部空間は当時のままです。(千代田区観光協会HP)

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山梨中央銀行 東京支店」の中央通りを挟んだ向かいの路地を入った所にも、古そうなビルがあるんですよね。こちらは、「丸石ビルディング

 

 

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【国登録有形文化財】 1931(昭和6)年 山下寿郎

昭和6年(1931)竣工.。山下寿郎建築事務所設計のオフィスビルです。中央区との区境、旧龍閑川沿いに建っています。

日本では珍しい中世・ヨーロッパの香り漂うロマネスク様式のオフィスビルです。竣工した1931年以来、テナントの需要に応えながら設備の改善を重ね、威容を保持している。

1階外壁に石材を使用し、2階以上をスクラッチタイル貼りとしています。1階外周にはリズミカルなアーチが並び、随所に施された動植物像やレリーフなどの豊かな装飾が特徴です。

また、6階胴蛇腹と頂部のテラコッタ製蛇腹で外観に変化を与えています。

設計者の山下寿郎氏は、日本最初の超高層ビル"霞が関ビルディングの設計者としても知られています。(千代田区観光協会HP)

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上の方を見上げて…

 

 

 

1階の窓上のアーチの彫刻もまた見事♪

 

 

 

玄関の両脇には、ライオン像も!

 

 

 

勿論、登録有形文化財です。

 

 

 

細部のデザインも、素晴らしいですね♪

 

 

 

中央通りを日本橋方面に進むと、路地の角に、史跡案内板があります。

 

 

 

その案内板に近づいて…こちらは「石町(こくちょう)時の鐘 鐘撞堂跡」。

時の鐘は、江戸時代に本石町3丁目へ設置された時刻を江戸市民に知らせる時鐘で、徳川家康公とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役に任命され、代々その役を務めました。

 

 

鐘は何回か鋳直されましたが、宝永8年(1711)に製作された時の鐘十思公園内(日本橋小伝馬町5-2)に移されて残っています。

鐘撞堂は、本石町3丁目(現日本橋室町4丁目・日本橋本町4丁目)辺りにあり、本通りから本石町3丁目を入って鐘撞堂に至る道を「鐘つき新道」と呼んでいましたので、時の鐘が移設された十思公園までの道が、平成14年に「時の鐘通り」と命名されました。

近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていました。

 

 

そうそう、「十思公園」には、「時の鐘」が置かれていますね。

当ブログでも、レポしていますよ。

 

 

十思公園・時の鐘のレポ

 

 

 

 

 

石町 時の鐘 鐘撞堂跡」の案内板の横にも、史跡案内板があって…

 

 

 

その案内板に近づくと、「夜半亭 与謝蕪村居住跡」とあります。

夜半亭は、元文2年(1737)俳諧師早野巴人(はじん)が、「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵で、「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなみ、巴人も「夜半亭宋阿」と号しました。

 

 

 

夜半亭には、多くの門弟が出入りしていたが、なかでも「宰町」と号していた若き与謝蕪村は内弟子として居住し、俳諧の修行に励みました。

寛保2年(1742)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散、蕪村は江戸を離れ、常総地方などを歴訪後、京都を永住の地と定めます。

やがて、俳諧師としての名声を高め、画業においても池大雅と並び称されるほどになった蕪村は、明和7年(1770)巴人の後継者に推されて、京都で夜半亭二世を継承しました。

 

 

 

この「夜半亭 与謝蕪村居住跡」の案内板の路地の地面には、「時の鐘通り」のプレートが埋め込まれています。

 

 

 

中央通りを更に日本橋方面に進み、室町3丁目交差点を左折すると、JR新日本橋駅の出入口があるんですが…

 

 

 

そのすぐ脇に、由緒書き「長崎屋跡」がありました。

江戸時代、ここには「長崎屋」という薬種屋があり、長崎のオランダ商館長の江戸参府時の定宿でした。

 

 

江戸参府に随行したオランダ人の中には、ケンペルツンベルクシーボルトなどの医者がいた為、蘭学に興味を持つ青木昆陽杉田玄白中川淳庵桂川甫周平賀源内をはじめとした日本人の蘭学者、医師などが訪問し、外国文化の交流の場として、先進的な外国の知識を吸収する場として有名になりました。

 

 

 

長崎屋跡」から一本南側の路地を東に進み、昭和通りを渡ると、右手に「史蹟 於竹大日如来井戸跡」があります。

 

 

 

於竹大日如来縁起

寛永17年、18才の時、山形県庄内より出て、当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなり、その行いは何事にも誠実親切で、一粒の米、一切れの野菜にも決して粗末にせず貧困者に施しましたので、於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたといいます。

 

 

出羽国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家を訪れ、「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげ、主人は驚き勝手仕事をやめさせ、持仏堂を造り、その後念仏三昧の道に入ると江戸市中に拡がり、於竹さんを拝もうと来る人の数知れずと言い、於竹さんが愛用し、貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にありました。

 

 

 

於竹井戸跡」から、路地を更に東に進むと、左手に神社が見えて来ます。こちらは、「宝田恵比寿神社」。

 

 

 

宝田神社 恵比寿神 御縁起と大伝馬町の由来

宝田神社は慶長11年の昔、江戸城外宝田村の鎮守様でしたが、徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の3ヶ村の転居を命ぜられ、馬込勘解由が宝田村の鎮守様を奉安申し上げ、住民を引率してこの地に集団移転したのです。

 

 

馬込勘解由は、家康公が入府の時、三河国から随行し、この大業を成し遂げられた功により、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので、平穏守護の御神体として「宝田神社」に安置。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。

 

 

 

宝田恵比寿神社」をお参りした後は、帰路につきましたが、日本橋界隈、史跡が多いですね~

ビルが建ち並ぶ街並で、史跡の名残はほとんど残っていませんが、当時に思いを馳せ、その時の光景を想像する…それもまた、なかなか楽しいもんです♪

 

都内の歴史散策。まだまだ続きますよ~

その様子が、また後日。

 

 

 

 

山梨中央銀行 東京支店

東京都千代田区鍛冶町1-6-10

 

 

丸石ビルディング

東京都千代田区鍛冶町1-10-4

 

 

石町(こくちょう)時の鐘 鐘撞堂跡碑

東京都中央区日本橋室町4-5-1付近

 

 

夜半亭 与謝蕪村居住跡碑

東京都中央区日本橋室町4-5-1付近

 

 

長崎屋跡

東京都中央区日本橋室町4-4

 

 

於竹大日如来井戸跡

東京都中央区日本橋本町3-6

 

 

宝田恵比寿神社

東京都中央区日本橋本町3-10-11

 

 

 

 

 

 

 

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