2018年8月17日の鹿児島市内散策の続き。
「南洲墓地」の続き。
南洲墓地・南洲神社・南洲公園(その4)のレポ
「南洲墓地」を更に回って、「池上貞固墓」を刻まれた墓石。
墓石の横には、「池上貞固(いけのうえさだかた)」と「辺見十郎太」の由緒書きがありました。
池上貞固は、戊辰の役に功があり、明治4年に陸軍少佐、征韓論が起こると明治5年に満州地方を視察、明治6年に職を辞して帰国しました。明治10年9月24日、城山岩崎谷に死す…享年36歳。
辺見十郎太は、近衛陸軍大尉の時に、西郷とともに下野し、明治10年の西南の役では薩軍三番大隊一番小隊長でした。
可愛嶽(えのたけ)突破には先鋒となり、頭部に負傷しましたが屈せず、明治10年9月24日、別府晋介とともに、西郷に従って岩崎谷に進み、奮戦して死す…享年29歳。
こちらが、その「辺見十郎太」の墓石です。
「南洲墓地」を更に歩いて…。
「高城十次」と刻まれた墓石。
「平野正介之墓」と刻まれた墓石。
「平野正介(鹿児島市滑川)」の由緒書き。近衛陸軍少佐の時に下野し、吉野開墾社の監督に。西南の役では、常山隊隊長。明治10年9月24日、城山で長兄の郷田七郎(38歳)、字形の郷田八兵衛(36歳)、郷田七郎の子郷田吉之助(17歳)とともに、戦死。享年32歳。正介は三男で、弟郷田猪之助(27歳)は延岡で戦死しました。
「南洲墓地」の隣には、立派な建物があります。こちらは「西郷南洲顕彰館」。
「西郷南洲顕彰館」の前には「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて建立の由来」という石碑がありました。
西南の役は、明治の近代国家建設途上における国内最後で最大の内戦で、明治10年2月15日に出軍、明治10年9月24日をもって終焉、参戦した兵力は、官軍6万人、薩軍3万人。両軍合わせて1万4,000余人の戦死者を出しました。
「回向には 我と人とを 隔つなよ 看経はよし してもせずとも」
島津家中興の祖日新公(島津忠良公)の「いろは歌」です。
日新公の加世田別府城の戦い、島津義弘公木崎原の戦い、島津義久公の耳川の戦いに続き、島津義久公・忠恒(家久)公親子の和歌山高野山、朝鮮の役など、それぞれに敵味方の別なく「高麗軍敵味方戦士や供養碑」を建立し、戦没者を懇ろに供養しました。
その精神を受け継ぎ、西南の役140年、明治維新150年を記念し、この石碑を建立したんですね…。
その「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて」という記念碑がこちら。石灯籠の形をしているんですね。
「南洲墓地 命もいらず名もいらず」という由緒書き。「信義を貫いた巨星と群れ星ここに眠る」ここ「南洲墓地」には、西南戦争に敗れた薩軍2,023名もの将兵が眠っています。
明治10年(1877)岩崎谷で戦死した西郷以下40名を仮埋葬したこの地に、2年後、市内各所に埋葬されていた遺骨を移し、更に6年後には、宮崎・熊本・大分からも集められました。
明治12年(1879)に設けられた参拝所は、大正11年(1922)西郷隆盛を祀る南洲神社となりました。
この由緒書きには、戦争経過地図が掲示されていて…。
薩軍に参加した主な県外出身者も掲示されていました。
「南洲墓地」には、大きな石灯籠もあって…。
こちらは「常夜燈」。西郷隆盛と勝海舟の会談により、江戸城無血開城となったのですが、その感謝の為、昭和14年、当時の東京市によって寄贈建立されたもので、花棚岩でできています。
勝海舟の歌碑もありました。「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」
「勝海舟歌碑」の由緒書き。
「黄興先生南洲墓地参詣之碑」と刻まれた大きな石碑もあって…。
台座部分には「黄興先生略歴」がありました。黄興先生とは、孫文とともに中国辛亥革命の代表的志士なのですね。
1874年、湖南省長沙市の学者の家に生まれ、名文家、能筆家として有名でした。
1902年、選ばれて日本に留学、東京の弘文学院に入学しましたが、早くから民族主義に目覚め「筆興会」の会長に推挙されると、孫文の「興中会」と日本で統合を図り、1905年「中国同盟会」を結成して、清朝を打倒し、中国の民主化を目指す革命運動の推進力となりました。
明治42年(1909)友人の宮崎滔天の案内で鹿児島を訪れ、南洲墓地を参詣し、漢詩を詠んだのですね…。
「南洲墓地」やっと参拝することができました。2,000名を超える西南戦争の戦死者が眠っているとは知らず、その墓石の数・規模に圧倒されました…合掌…。
「南洲墓地」「南洲神社」を参拝した後は、「今和泉島津家本邸跡」に向かいました。
その様子は、また後日。
鹿児島市上竜尾町2-1
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