2016年4月3日の三原散策の続き。
竹原市重要伝統的建造物群保存地区のメインストリートからちょっと離れて、近くにあるお寺を見て回ることにしました。
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脇の路地を進むと、右手に、社が見えて来ます。扁額には「愛宕神社」とあります。
社に近付いて…。
由緒書き。ちょっと読み辛いですね…(^^;
愛宕神社は火産霊命(ホムスビノミコト)が火伏の神として祀られています。 家内安全・商売繁盛として下市に発展しました。 竹原市史によりますと慶長十五年(一、六一四)ここ下市に大火災発生して詳しくしらべると元禄以降は三年に一回と多くの火災を見ています。特に百軒以上の大火災は五~六件もあり宝暦十三年(一、七六三)一二六軒 明和五年(一、七六九)は六〇〇軒と続けて大消失しています その後ここ下市の祖先が火災のない事を祈願して祀られたのです 今回改築した社殿は二十年以上の簡易建物で修理が必要となり先般新築することを下市一組常会の会員の一致で決議し平成九年四月に完成しました。祖先の趣旨を受け継ぎ貴重な文化財として守護神として守って行きたいと存じます。 平成九年五月吉日 下市一組常会 世話人
社に階段部分には、小さなダルマさんが!可愛らしくて♪
「愛宕神社」の隣には、お堂がありました。
入口部分には由緒書きがあって…。「地蔵堂」とあります。
「西方寺」に属する堂宇で、慶長15年(1614)の下市の大火により焼失しましたが、その後、代官の鈴木重仍(しげより)により再建され、塩浜の守護として信仰されて来たとあります。
現在のお堂は昭和2年の建築になるんですね。
「西方寺」に属する堂宇で、慶長15年(1614)の下市の大火により焼失しましたが、その後、代官の鈴木重仍(しげより)により再建され、塩浜の守護として信仰されて来たとあります。
現在のお堂は昭和2年の建築になるんですね。
境内にある石碑の由緒も書かれていました。
鈴木重仍翁彰徳碑、田窪藤平褒章記、小山季興思恩碑。いずれも塩田、製塩に関わった人物になるんですね。流石は、塩の街・竹原。
鈴木重仍翁彰徳碑、田窪藤平褒章記、小山季興思恩碑。いずれも塩田、製塩に関わった人物になるんですね。流石は、塩の街・竹原。
入口から境内に入ります。御香台でしょうか?
入口正面の地蔵堂。なかなか立派ですね!
お堂の左手に回って…。
境内の石碑。こちらは、田窪藤平褒章記のようです。伊予国波止浜に生まれ、各地を巡歴、藤平流と呼ばれる製塩法の改良方法を考案し、各地に招かれ普及に尽力した人物。明治37年の銘があります。
こちらは鈴木重仍翁彰徳碑。新開を開き、塩田を築き、竹原の発展の基礎を造った人物。
余談ですが、「地蔵堂」の向かい側のお宅も渋いんですよね~♪
「愛宕神社」と「地蔵堂」をお参りした後は、この路地の奥に進み、「長生寺」に向かいました。
その様子は、また後日。
その様子は、また後日。
愛宕神社
広島県竹原市本町1-11-12 付近
広島県竹原市本町1-11-12 付近
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