今年2104年5月上旬の佐賀市内散策レポの続き。
「佐嘉神社」の続き。
佐嘉神社(その5)松原神社(その1)のレポは、「こちら」。
「盥漱盤(かんそうばん)」と書かれた大理石の手水鉢の、神門を挟んで反対側には、灯籠らしきものがあって…。
由緒書き。これは陶磁器の灯籠なんですね!す、すごい!
李三平氏を一段とする陶工たちが、元和2年(1616)に、有田泉山に陶石を発見し、李朝と同じような磁器を焼成したそうで、有田焼の基礎となったとあります。
由緒書き。これは陶磁器の灯籠なんですね!す、すごい!
李三平氏を一段とする陶工たちが、元和2年(1616)に、有田泉山に陶石を発見し、李朝と同じような磁器を焼成したそうで、有田焼の基礎となったとあります。
陶磁器の灯籠をアップで。
登り龍でしょうか、見事なものです!
神門の柱の部分に、また別の由緒書きがありました。『河童の木像「兵主部」』とあります。
この神門には「松原神社」ご鎮座当時(安永元年)より飾られていたとされる河童の木像があり、かつて松原川に棲んでいた河童「兵主部(ひょうすべ)」と言われているそうです。
神門の上の方を見ると、写真でした。由緒書きにある通り、五番社「松原稲荷神社」の東側に新しく「松原河童社」がご鎮座し、この「兵主部」をお移ししてあるそうです。
神門をくぐり、振り返って…。
神門の脇にある由緒書き「松原神社由緒記」。
御祭神は、北座に龍造寺隆信公、龍造寺政家公、龍造寺高房公。
南座に、鍋島清久公、佐賀藩祖鍋島直茂公、直茂公室の彦鶴姫、初代藩主鍋島勝茂公。
龍造寺御三神は延享2年(1745)佐賀城内に奉祀し、天保5年(1834)に今の大和町に遷座、
明治6年(1873)に「松原神社」に遷座したとあります。
登り龍でしょうか、見事なものです!
神門の柱の部分に、また別の由緒書きがありました。『河童の木像「兵主部」』とあります。
この神門には「松原神社」ご鎮座当時(安永元年)より飾られていたとされる河童の木像があり、かつて松原川に棲んでいた河童「兵主部(ひょうすべ)」と言われているそうです。
神門の上の方を見ると、写真でした。由緒書きにある通り、五番社「松原稲荷神社」の東側に新しく「松原河童社」がご鎮座し、この「兵主部」をお移ししてあるそうです。
神門をくぐり、振り返って…。
神門の脇にある由緒書き「松原神社由緒記」。
御祭神は、北座に龍造寺隆信公、龍造寺政家公、龍造寺高房公。
南座に、鍋島清久公、佐賀藩祖鍋島直茂公、直茂公室の彦鶴姫、初代藩主鍋島勝茂公。
龍造寺御三神は延享2年(1745)佐賀城内に奉祀し、天保5年(1834)に今の大和町に遷座、
明治6年(1873)に「松原神社」に遷座したとあります。
神門の手前には、こんなに大きな灯籠が!立派ですね。
その近くには、石像の馬や狛犬が鎮座されていて…。
先程の大きな灯籠の反対側には石碑が並んでいて…。
その石碑に向かって左手の石碑には「松原神社中殿之跡」と書かれていました。
真ん中には「池坊華道系図」と書かれた石碑があって…。
右手の石碑には「松原神社北殿之跡」とありました。以前は、その名の通り、分かれて社殿が建てられていたのでしょうね。
その近くには、石像の馬や狛犬が鎮座されていて…。
先程の大きな灯籠の反対側には石碑が並んでいて…。
その石碑に向かって左手の石碑には「松原神社中殿之跡」と書かれていました。
真ん中には「池坊華道系図」と書かれた石碑があって…。
右手の石碑には「松原神社北殿之跡」とありました。以前は、その名の通り、分かれて社殿が建てられていたのでしょうね。
「その7」に続く。
2014年5月上旬の佐賀市内散策レポ
佐賀市内散策速報レポは、「こちら」。JR佐賀駅前・面浮立(めんぶりゅう)のレポは、「こちら」。
龍造寺八幡宮(佐賀八幡宮)・楠神社(その1)のレポは、「こちら」。
龍造寺八幡宮(佐賀八幡宮)・楠神社(その2)のレポは、「こちら」。
龍造寺八幡宮(佐賀八幡宮)・楠神社(その3)のレポは、「こちら」。
龍造寺八幡宮(佐賀八幡宮)・楠神社(その4)のレポは、「こちら」。
高寺のレポは、「こちら」。
徴古館・弘道館跡のレポは、「こちら」。
佐嘉神社(その1)のレポは、「こちら」。
佐嘉神社(その2)のレポは、「こちら」。
佐嘉神社(その3)のレポは、「こちら」。
佐嘉神社(その4)松根社のレポは、「こちら」。