太宰府天満宮に近い名所・史跡ご紹介の続き。
これから紹介する写真は今年の3月上旬のもの。季節感がずれていますので、ご了承を(汗)。
これから紹介する写真は今年の3月上旬のもの。季節感がずれていますので、ご了承を(汗)。
学校院跡と月山東地区官衙跡を見学した後は、その隣にある大宰府政庁跡に向かいました。
阿修羅展の様子は、「こちら」。
太宰府天満宮と九州国立博物館の様子は、「こちら」。
神護山 光明禅寺の様子は、「こちら」。
藍染川と伝衣塔の様子は、「こちら」。
太宰府天満宮境内の茶屋・食堂さちの家の様子は、「こちら」。
観世音寺の様子は、「こちら」。
戒壇院の様子は、「こちら」。
学校院跡と月山東地区官衙跡の様子は、「こちら」。
太宰府天満宮と九州国立博物館の様子は、「こちら」。
神護山 光明禅寺の様子は、「こちら」。
藍染川と伝衣塔の様子は、「こちら」。
太宰府天満宮境内の茶屋・食堂さちの家の様子は、「こちら」。
観世音寺の様子は、「こちら」。
戒壇院の様子は、「こちら」。
学校院跡と月山東地区官衙跡の様子は、「こちら」。
月山東地区官衙跡から少し進むと、大宰府資料館があります。
この日は時間がなく、素通り(汗)。
この日は時間がなく、素通り(汗)。
また少し進むと、歌碑が見えて来ました。大伴旅人の歌のようです。
由緒書き。
由緒書き。
やすみしし わご大君(おおきみ)の 食国(をすくに)は 倭(やまと)も此処も 同じとぞ思ふ 大宰帥(だざいのそち) 大伴旅人(おおとものたびと) 原文 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曾念 万葉集巻六 九五六 大意 私がお仕えする大君が、安らかにお治めになる国は、中央の大和も ここ大宰府も同じ、異なることはないと思っている。 大宰帥として赴任したばかりの大伴旅人にむかい、少弐(大宰府の三等官)石川足人(いしかわのたるひと)が さす竹の大宮人(おおみやびと)の家と住む 佐保の山をば思ふやも君 (大宮人が家として住んでいる平城〈なら〉の佐保の山を、あなたはなつかしくお思いになるでしょうか) と問いかけたのに対して、旅人が和えた(こたえた)歌である。ここでは旅人は、遠の朝廷(とおのみかど)大宰府の長官としての気概を詠っている。 この解説板は「歴史と文化の環境税」で作成しています。大伴旅人も、大宰府に派遣されていたことがあるんですね。
大宰府政庁跡に到着。
正面入口脇には2つの石碑が。「太宰府址」と「都府楼之址」とあります。
大宰府政庁は、都府楼とも呼ばれます。
西鉄電車やJRの駅名にも見られる呼び名です。
正面入口脇には2つの石碑が。「太宰府址」と「都府楼之址」とあります。
大宰府政庁は、都府楼とも呼ばれます。
西鉄電車やJRの駅名にも見られる呼び名です。
2つの石碑の脇、駐車場の出入口には、このような大きな石が置かれています。
由緒書き。
由緒書き。
推定大宰府庁正門礎石 昭和57年の御笠川(みかさがわ)改修工事のとき、その川床から発見された。縦横2m近くあり、政庁の中門・南門のものとは比較にならず、正殿のものよりもひとまわり大きい。 発見地点は政庁南門の南約220m、政庁中軸延長線上に位置する。この礎石の巨大さと発見位置から推定すると、ここに政庁の正門すなわち都の朱雀門に相当する門があった可能性は十分に考えられる。大宰府政庁の規模の大きさを物語っていますね。
大宰府政庁跡に入ります。
由緒書き。
由緒書き。
特別史跡 大宰府跡 大正一〇年三月三日 史跡指定 昭和二八年三月三一日 特別史跡指定 福岡県太宰府市大字観世音寺 坂本 古代、西海道と呼ばれた九州一円を統括していた大宰府は外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていた。その機構は中央政府に準じ、地方機関としては最大規模の行政組織を有していた。 発掘調査によると、七世紀後半に掘立柱建物が建てられ、八世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備される。この建物は藤原純友の乱によって焼き打ちされたが、十世紀後半には立派に再建された。 現在見ることの出来る礎石は、この再建期のもので、左上図は発掘調査の成果をもとにして復元されたものである。これらの建物は菅原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」とうたっているように壮大なもので、当時としては中央の都の建物にも劣らぬものであった。 正殿は重層風につくられ、屋根は入母屋ないしは寄棟造りであったと思われる。 このような政庁を中心にして周囲は、数多くの役所が配置され、その規模は平城・平安の都に次ぐ「天下の一都市」であった。 昭和六一年三月 福岡県教育委員会当時の隆盛が偲ばれますね。
入口の石段を登ると、復元された礎石が見えて来ます。この場所は南門跡に当たります。
由緒書き。
その様子は、「こちら」。
由緒書き。
特別史跡 大宰府跡 大宰府政庁南門跡 所在地 太宰府市観世音寺4丁目539-1ほか 指定日 昭和28年3月31日 南門とは 南門とは政庁の南に築かれた正門である。両側には東西に伸びる築地塀が取り付き政庁全体を囲んでいた。要人や外国の施設を応接するにふさわしい威容を誇っていたであろう。 なお役人の日常の出入りには築地塀に設けられた脇門を利用していたと考えられる。 発掘調査でわかったこと 南門跡は中門跡とともに、昭和43(1968)年に大宰府跡で最初の発掘調査がおこなわれた場所である。この調査によって地表面に見える礎石群は奈良時代(政庁第Ⅱ期)のものではなく、平安時代後半(政庁第Ⅲ期)に建て替えられた時のものであることが判明した。 (中略) 礎石は11個残っていた。調査結果をもとに平面復元を行った。現在見えている礎石は右図のように本来の位置のもの、移動されたもの、コンクリートで新しく作ったものの3種類がある。ななお両脇の柘植(つげ)は築地塀を表示している。 (後略)復元された大宰府政庁南門は、九州国立博物館に展示されています。
その様子は、「こちら」。
南門跡を進むと、両側にも礎石群があります。
向かって右側(東側)の礎石群。ここにも建屋があったようです。
更に進みます。背後には、岩屋山が見えて来ます。
この岩屋山に、観世音寺でご紹介した「岩屋城の戦い」の岩屋城があります。
観世音寺のレポは、「こちら」。
向かって右側(東側)の礎石群。ここにも建屋があったようです。
更に進みます。背後には、岩屋山が見えて来ます。
この岩屋山に、観世音寺でご紹介した「岩屋城の戦い」の岩屋城があります。
観世音寺のレポは、「こちら」。
「その2」に続きます。