太宰府天満宮に近い名所・史跡ご紹介の続き。
これから紹介する写真は今年の3月上旬のもの。季節感がずれていますので、ご了承を(汗)。
これから紹介する写真は今年の3月上旬のもの。季節感がずれていますので、ご了承を(汗)。
観世音寺を参拝した後は、その隣にある戒壇院に向かいました。
阿修羅展の様子は、「こちら」。
太宰府天満宮と九州国立博物館の様子は、「こちら」。
神護山 光明禅寺の様子は、「こちら」。
藍染川と伝衣塔の様子は、「こちら」。
太宰府天満宮境内の茶屋・食堂さちの家の様子は、「こちら」。
観世音寺の様子は、「こちら」。
太宰府天満宮と九州国立博物館の様子は、「こちら」。
神護山 光明禅寺の様子は、「こちら」。
藍染川と伝衣塔の様子は、「こちら」。
太宰府天満宮境内の茶屋・食堂さちの家の様子は、「こちら」。
観世音寺の様子は、「こちら」。
戒壇院は、観世音寺のすぐ隣にありますので、この日はそのまま境内に入り参拝しました。
しかし、このレポでは、分かり易くする為に、参道からご紹介します。
写真の時間軸は逆になりますので、ご了承下さい。
しかし、このレポでは、分かり易くする為に、参道からご紹介します。
写真の時間軸は逆になりますので、ご了承下さい。
南側の大通りから参道とその脇の石柱。古ぼけた石柱に「戒壇院」とあります。
その脇にある由緒書き。
現在は博多の「聖福寺」の末寺になっているんですね。
その脇にある由緒書き。
戒壇院(かいだんいん) 戒壇院は「天下の三戒壇」の一つとして天平宝宇5年(761)、筑紫観世音寺境内の西南角に設置された。唐僧鑑真は5度渡航に失敗し、身は盲目となりながらわが国に戒律を伝え、天平勝宝6年(754)奈良東大寺に戒壇を設けた。ここ西戒壇は、下野薬師寺の東戒壇と同年に創設され、九州の僧尼たちの登壇受戒の道場として継承されてきた。 江戸時代、寛文年間より黒田藩家臣鎌田昌勝、豪商浦了無(うらりょうむ)等によって再興が続けられ、現在に伝わる開山鑑真和上像、本尊脇侍(わきじ)等も新造された。元禄16年(1703)藩命によって博多禅宗四ヶ寺の管理となり、観世音寺を離れ、現在は博多聖福寺(しょうふくじ)の末寺となっている。なお本尊盧舎那仏(るしゃなぶつ)は平安時代の作で国の重要文化財に指定されている。 ‘95太宰府市前回レポの「観世音寺」に設けられた「戒壇院」が、江戸時代に別のお寺に管理を移管され、
現在は博多の「聖福寺」の末寺になっているんですね。
参道を進むと、山門と大きな楠?が見えて来ます。
山門。
山門に掲げられた銘。
山門脇にある由緒書き。
「葷」とは臭気の強いネギ・ニラなどの野菜のことで、それに「酒」と「肉」は不浄、浄念を乱すため、
清浄な寺院の境内に入ってはいけないという意味。
昔の僧侶の戒律は厳しかったんですね。小生は境内に入っていけないかも知れませんが(汗)。
山門。
山門に掲げられた銘。
山門脇にある由緒書き。
天下三戒壇の一 西戒壇 開山 天平宝宇五年(七六一) 鑑真和上 本尊 毘盧舎那仏 国指定(重要文化財) 戒壇は、奈良時代に国家が正式に各宗派僧侶の資格を認める受戒の儀式のためと、戒律のために設けられた。 本堂内戒壇には、天竺(インド)唐(中国)大和(奈良)三国の土が納められている。戒壇石。「不許葷酒肉入境内」とあります。「葷酒肉、境内に入るを許さず」と読みます。
「葷」とは臭気の強いネギ・ニラなどの野菜のことで、それに「酒」と「肉」は不浄、浄念を乱すため、
清浄な寺院の境内に入ってはいけないという意味。
昔の僧侶の戒律は厳しかったんですね。小生は境内に入っていけないかも知れませんが(汗)。
山門をくぐると本堂が見えますが、その手前には礎石が見えます。また別の門があったようですね。
本堂に向かって右手には、鐘楼があります。
由緒書き。元禄14年(1701年)に建立。308年前・・・。古いですね。
本堂。江戸時代、寛文年間から始まった再興の時に再建された建物。歴史を感じます。
しかし、本堂正面に石灯籠があるのって、珍しいですね。
本堂に向かって右手には、鐘楼があります。
由緒書き。元禄14年(1701年)に建立。308年前・・・。古いですね。
本堂。江戸時代、寛文年間から始まった再興の時に再建された建物。歴史を感じます。
しかし、本堂正面に石灯籠があるのって、珍しいですね。
本堂の扁額。
本堂の中の様子。本尊「盧舎那仏」は平安時代の作で国の重要文化財。立派です。
本堂の中の様子。本尊「盧舎那仏」は平安時代の作で国の重要文化財。立派です。
本堂を脇の方から。結構古いですね。
本堂のすぐ傍には石塔がいくつか並んでいて・・・。
由緒書き。向かって右側が「鑑真和上の供養塔」、左側が「変形宝篋印塔」。
その隣には・・・。
由緒書き。「五重塔」とあります。
本堂のすぐ傍には石塔がいくつか並んでいて・・・。
由緒書き。向かって右側が「鑑真和上の供養塔」、左側が「変形宝篋印塔」。
その隣には・・・。
由緒書き。「五重塔」とあります。
五重塔 戒壇院再建に尽した、博多の豪商天王寺屋浦了無の供養塔。裏に「単伝了無居士」貞享二年と陰刻(一六八五)あり。 塔身初眉にくり穴があり、佛舎利一粒、小版本大乗妙典十巻、回圓札、三ッの紙包(文書)が納置されていた。
本堂に向かって右側の奥の方に、小さな社があります。
中にはお地蔵さんが。「延命地蔵尊」あります。
由緒書き。
この大きな樹木は「菩提樹」。「鑑真和上が中国から請来したと伝えられる。」とあります。
裏の門を外に出て・・・。
裏の門の扁額には「西戒壇」とあります。
実は、この門は「観世音寺」の金堂の裏手にあって、本当に近い場所にあります。
ですから、この日は「観世音寺」からこの裏門を通って、参拝しました。
中にはお地蔵さんが。「延命地蔵尊」あります。
由緒書き。
地蔵菩薩 元禄十一年(一六九八) 釈迦の死後、弥勒出世まで無佛の間、現世や地獄での救済、教化の役割を担っている。 また賽の河原で、親に先だった子供を救うと信じられている。八月二十四日は、子供のための地蔵盆である。地蔵菩薩の奥の方には、大きな樹木と小さな門が見えました。
この大きな樹木は「菩提樹」。「鑑真和上が中国から請来したと伝えられる。」とあります。
裏の門を外に出て・・・。
裏の門の扁額には「西戒壇」とあります。
実は、この門は「観世音寺」の金堂の裏手にあって、本当に近い場所にあります。
ですから、この日は「観世音寺」からこの裏門を通って、参拝しました。
その途中にある庚申塚。それにしても、九州には庚申塚がよく残っています。
太宰府天満宮に近い場所にある古寺戒壇院。
鑑真和上が日本に渡って初めて授戒を行った場所と言われているそうです。
再建されて、観世音寺から別の寺院の管理に移行して行く・・・。
鑑真和上が日本に渡って初めて授戒を行った場所と言われているそうです。
奈良時代の半ばの天平勝宝5年(753年)12月20日に仏舎利を携え薩摩坊津で来日に成功した唐僧鑑真が、同じ年の12月26日に太宰府を訪れこの戒壇院の地で初の授戒を行った。開山は鑑真であり、戒壇院は現在も奈良時代以来同じ場所にあるとされている。(ウィキペディアより)その由緒正しき戒壇院も衰退してしまいますが、黒田藩家臣鎌田昌勝や豪商浦了無によって、
再建されて、観世音寺から別の寺院の管理に移行して行く・・・。
時代の流れ、移り変わりを感じさせる古寺戒壇院。
でも、時代が変わっても、その威厳は変わらない。そんな雰囲気を感じました。
でも、時代が変わっても、その威厳は変わらない。そんな雰囲気を感じました。
太宰府天満宮にお越しの際は、是非立ち寄って見て下さい。
こちらも訪れる人は少ないので、ゆっくり見られます。
こちらも訪れる人は少ないので、ゆっくり見られます。
戒壇院を参拝した後は、これまた並びにある大宰府政庁跡に向かいました。
その様子はまた後日。
その様子はまた後日。
戒壇院
福岡県太宰府市観世音寺5-6-1
http://www.kyuhaku-db.jp/dazaifu/historic/36.html#1(九州国立博物館「西都太宰府」)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%92%E5%A3%87%E9%99%A2(ウィキペディア)
福岡県太宰府市観世音寺5-6-1
http://www.kyuhaku-db.jp/dazaifu/historic/36.html#1(九州国立博物館「西都太宰府」)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%92%E5%A3%87%E9%99%A2(ウィキペディア)