世持神社と、ニービ石と ~沖縄の神社 | 九州下町おやじの珍道中

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先週の沖縄出張。
沖縄県護国神社」参拝後、同じ「奥武山公園」の中にある「世持神社(よもちじんじゃ)」を参拝。
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沖縄県護国神社」の様子はこちら

沖縄県護国神社」から「世持神社」へ行くには、先程の池の横を通りますが、
池の畔にはシーサーの他、竜のような像もありました。亀さんと一緒に。
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亀さんは同じ方向を向いていますね(笑)。

世持神社」の鳥居を後ろ側から。
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鳥居の正面には武道館が建っているので、写真を正面から上手く撮れませんでした(涙)。
左上に見えるのが武道館。屋根の赤いラインが特徴的です。

世持神社」の拝殿が見えて来ました。シーサー似の狛犬とともに。
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向かって左側の狛犬。上の方が切れてますね。ずびばぜん(涙)。
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拝殿に近づきます。こちらも宮司さんが参拝中でした。
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シンプルな拝殿ですね。
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拝殿に向かって左側の拝殿。おや?仏様が見えますね。お線香台もあります。しかも右手には鏡が・・・。
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この神社は、神仏混合の形式が残っているようですね。

中央の拝殿向かって右側には、小さな祠と石碑が。
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朱色の鳥居は、お稲荷さんの特徴ですよね。
石碑には、中央に「混比羅大明神」、右に「恵比寿大明神」、左に「大國大明神」と書かれています。
シンプルな拝殿に、様々な神様と、仏様もいらして、なかなか興味深い神社ですね。
ユニークな感じがします。

先程の鳥居の横には、「みなと村役場跡」の説明書きがありました。
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沖縄戦の後、特別に設置された行政区みなと村の役場跡。
 1945年(昭和20)の沖縄戦の後、米軍専用となった那覇港での米軍需物資や民間の食料品等の荷役作業は、当初日本軍捕虜によって行われていたが、捕虜の解放、本土の引揚げにより、沖縄県民約2千人の那覇港湾作業隊が組織された。この作業隊及びその家族を含めて約1万人の生活・労務管理等を円滑に行うため、1947年(昭和22)5月1日、当時の沖縄民政府によりみなと村が設置された。初代村長には港湾作業隊の指揮を執っていた国場幸太郎(こくばこうたろう)氏が就任。役場庁舎には奥武山(おうのやま)の世持(よもち)神社の建物が使用された。
 村の行背区域は、奥武山を中心に戦前の那覇市山下町、真和志(まわし)村の楚辺(そべ)・松尾(まつお)・壺川(つぼがわ)など約23万坪にも及んだ。また米軍のテントカバーで作られた規格住宅が1世帯1棟づつ割り当てられ、奥武山など区域内には規格住宅が立ち並んだ。
 1950年(昭和25)、港湾作業が民間の業者による請負制になったため、村存続の意義がなくなり、同年8月1日那覇市に合併し、みなと村は解消された。
港湾荷役の為に行政区が出来るとは、珍しいですね。
奥武山は入江に面しているので、港湾荷役に適した場所だったということなのでしょう。

「みなと村役場跡」の説明書きの横の、ガジュマルの木の下にこんなものが。
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この石は俗称ニービ石で富山県の“ひょうたん石”(国指定天然記念物)と同質の珍石です
石の表面に、ひょうたんのような石が張り付いているように見えますね。
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張り付いているのでないようで、石が自然に削られたというには丸みを帯びているように感じます。
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こうような形になる理由は分かりません。
きのこ?それとも・・・?
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世持神社」は歴史があるように感じますが、由緒書きがなく、由緒は分かりません。
だた、周囲には樹木も多く、ガジュマルの木も生えていて、なかなか趣のある神社でした。

沖縄の神社を参拝出来て、良かったと思います。

この後、仕事に向かいました。仕事の後のお楽しみは・・・晩飯!!
その様子はまだ後日・・・。アップ出来るかなぁ・・・。