2018年8月16日に、速報レポで、鹿児島の知覧町に出撃レポをアップしましたが、それもまたシリーズでアップして行きますね。
知覧町出撃速報のレポ
https://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/42133220.html
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12398359111.html
鹿児島中央駅まで九州新幹線で行き、そこからレンタカーで、知覧町まで移動。
まずは、「知覧武家屋敷」に!
駐車場に車を停めて、東側の入口とも言える「城山橋」を…。
城山橋のすぐ近くには小高い山がありまして、「知覧亀甲城公園」となっているそうです。
中世の「亀甲城」の跡なんですね。別名・蜷尻城といい、鹿児島市方面からの外敵侵入に備えた前衛的城塁になる訳か~。
城山橋の下には、麓川が流れていて…。河原から公園が続いていて、右手の山が亀甲城跡になります。
武家屋敷に向かって進むと、案内板があって…。入園料として、大人500円を払うと、公開しているすべての庭園が見られるんですね。
「知覧武家屋敷案内板」もありました。
その案内板に掲示してある「歴史的背景」をアップで。現在に残る「知覧麓(ちらんふもと)」の武家屋敷群は、江戸時代中期、佐多氏18代で知覧領主島津久峰の時代に形作られたと言われています。
江戸時代、薩摩藩は領地を外城(とじょう)と呼ばれる113の地区に分け、御仮屋を中心に武家集落を造り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治に当たりました。
佐多氏初代佐多忠光が地頭として知覧を治めるようになったのは、南北朝時代の文和2年(1353)、当初はここから約1.5km南西にある知覧城を拠点としていましたが、天正19年(1591)11代佐多久慶の時代に、海賊事件により川辺の宮村に転封。佐多氏が復帰する慶応15年(1610)まで、種子島氏が知覧を治めました。
復帰した12代佐多忠充は本拠(御仮屋)をここから約1km西にある中郡地区に移転。その時から、現在残る武家屋敷が形成されていったのですね。
16代佐多久達の時代に、元々、島津氏の分家筋であり、代々薩摩藩の重席にあったので、それまでの功績が認められ、知覧領の私領化と島津姓を許されるようになりました。
「知覧武家屋敷」には、他にも見所がいろいろありますね~。
「知覧武家屋敷」を進みます。
すると左手に立派な門の御宅を発見。
こちらは公開している庭園の一つ「森重堅邸庭園」。
門をくぐると、入園料取扱所の看板があって…。こちらで入園料500円を支払うと貰えるパンフレットを掲示することで、7つの公開庭園を見学することができるのですね♪
敷地内を進むと、目の前に、古そうな蔵が!かなり立派な蔵ですね~。
受付で入園料を支払い、パンフレットを受け取って…。お茶も一杯頂けましたよ♪お茶は勿論、知覧茶♪香りの良いお茶で、美味しかった♪
「森重堅邸庭園」を拝見…。母屋もかなり古そうで、渋か~♪
「その2」に続く。
鹿児島県南九州市知覧町郡13731-1
http://chiran-bukeyashiki.com/
下町おやじのYahoo!ブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/42154096.html