2015年9月下旬の萩・三田尻(防府)歴史散策の続き。
「問田益田氏旧宅土塀」を見学した後もまた、萩城を目指して進んで行きました。
問田益田氏旧宅土塀のレポ。
http://ameblo.jp/indyaki12/entry-12186017138.html
「問田益田氏旧宅土塀」が途切れる角には、石碑がありました。
石碑に近付いて…。「国司親相旧宅地」と刻まれていました。
国司親相(くにし ちかすけ)は国司信濃で知られる萩藩の家老で、第一次長州征伐の後、切腹して果てた人物…。
こちらも、大きなお屋敷だったのでしょうね…。も、もしかして、萩西中学校の敷地全部!?
「国司親相旧宅地」の石碑の向かいには、板壁の建物があって…。こちらは、萩高校の敷地になります。白い塀が続きます…。右手が萩高校、左手が萩西中学ですが…。なかなかいい雰囲気♪
「国司親相旧宅地」の石碑のある角を左折し、西に進みます。
『福原 元僴(ふくばら もとたけ)は、江戸時代末期(幕末期)の武士。長州藩の永代家老。福原越後の名で知られている。長州藩支藩である周防徳山藩主・毛利広鎮の六男。 (中略) その後、幕府による第1次長州征伐が起こると、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握してしまう。元僴は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、西郷隆盛の要求により国司親相・益田兼施と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、同年中に岩国の龍護寺で自害した(享年50)。(後略)(ウィキペディア「福原元僴」)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E5%85%83%E3%81%9F%E3%81%91
その横には、由緒書きがあって…。「旧福原家萩屋敷門」。萩藩永代家老の福原家の萩上屋敷の表門とあります。
領地は宇部であったが、重臣と言うことで、萩に住んでいたのですね。
「旧福原家萩屋敷門」を別の角度から…。本当に立派です!屋敷の広さを感じずにはいられません!
詳しくは、こちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/41333661.html
萩城内に入り、益田家、国司家、福原家の家老の屋敷跡を見ることができて、感慨深かったな~♪
禁門の変から第一次長州征伐の責任を取る形で切腹した3家老にゆかりのある地ですから余計に…。
「国司親相旧宅地」「旧福原家萩屋敷門」」と見学した後は、「天樹院」に立ち寄りました。
その様子は、また後日。
国司親相旧宅地
山口県萩市堀内258-13付近
旧福原家萩屋敷門
山口県萩市堀内210-34付近
http://hagishi.com/search/detail.php?d=100022(萩市観光協会HP)