自分が正しい道を行くために② | C l e a r n e s s

私はプロの物書きでは無いし、このブログは私個人のブログなので、

ちゃんとまとまった文章になっていなくても、思っていることを書く。
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私は、お釈迦様の教えに辿り着いて、今度こそ、それまでのメソッドなど
とは違って、この教えを長年実践したり学んだりしている人達は、尊敬
出来たり、善い人達ばかりであるような、勝手な期待を抱いていたんや
と思う。

何と言っても、入口がカンポンさんなので(笑)

 

元はと言えば、子供の頃から、生き辛さを感じてたり、人間のズルさの
ようなものを実感していて、人のことを心から信じてはいない反面、
自分が関わる人達のことを、信じたり良く思いたい気持ちや、素晴ら
しい人であって欲しいみたいな期待があったんやと思う。

自分のことは棚に上げておいて(^^;)

 

だから、過去に自分が受けたり学んだりして来た色々な施術や、スピ
リチュアル系のメソッドなどに関わる人達に対しては、そうではない人
に対するよりも、そういった期待が大きかったんやろうし、初期仏教の
実践者に対しては、更にその期待が大きく、そうであると信じたい
気持ちが強かったんやなと。

 

でも、そんな勝手な期待は当然打ち砕かれ(笑)、長年出家されていて

人気のある比丘の方達であっても、私にとっては、人としてどうなんか

なぁと思えてしまう出来事があったり、強い自我が見えてしまって、
残念で落ち込んだり、私自身が、まだまだ修行が出来ておらず未熟な

こともあって、そういったことで信が揺らいで不安になってしまったり。。。


 

私は、やっぱり人として善くならないのであれば意味が無いとは思うし、

(何を以て“善い”とするのかは、主観でしかない部分があるにしろ)

他の人に対して「何でそうなるんかなぁ???」と思ってしまうことは、

これからもあるやろうけど、この初期仏教の実践者においても、色々な
人達がいて、玉石混淆なのは当たり前と潔く受け入れて、今更ながら、

何はともあれ自分の修行に集中しようと決めました。

お釈迦様の言葉とされている『ダンマパダ』の中に、
「他人のしたこと、しなかったことをみるな。
 ただ、自分のしたこと、しなかったことだけをみよ。」

とあるし、

アチャン・チャーの『手放す生き方』では、
「他人は放っておきなさい。
もし彼らが間違ったおこないをしたとしても、そのことによって、
あなた自身が苦しむ必要はないのです。」

とあり、

サヤドー・ヤウェイヌエ のKindle本 『落ち込んだときは水を浴びましょう』

では、
「私たちはこの貴重な時間を、他人の善悪を批評したりするのに
費やすべきではありません。よい人間になるための時間です。
つまり、他人がよいことをしようと、悪いことをしようと、自分が
よい人間になることが肝心なのです。」

とあることやし。


まぁ、機会があれば、自分の意見を伝えたり、必要な対応は行うだろうし、

批判的なことを言ってしまうこともあるやろうけど(苦笑)

 

いずれにしても、誰もが自分の業は自分で背負う結果になるのだし。


 

もちろん、初期仏教とは全く関わりがなくても、素晴らしいと思えたり、

畏敬の念を抱くような方達も実際にいらっしゃるけど、私にとって、真の

幸せへの道はお釈迦様の教えにあるし、本当にありがたいことに、色々な

素晴らしいご縁を頂いてもいるので、出来るだけ、自分が善いと思えたり、

尊敬出来る人達の方に意識を向けるようにして、正しく善いと思うことを

行っていけば、正しい方向へ導かれるはずかなと。

 

最終的には「自灯明・法灯明」なのでしょうが。