“気づいていない”ことで苦しいのは自分 | C l e a r n e s s
「全ての人が、それぞれに自分のフィルターを通して全ての事を
捻じ曲げて解釈している」
「誰もが全てのことを、自分の都合のいい様に編集して、見たり
聴いたり捉えている」
「皆、自分の見たいようにしか見ないし、聴きたいようにしか聴か
ないし、理解したいようにしか理解しない」

といったことは、仏教や悟り系やそれ以外の分野でも言われて
いることですが、ほんまにそうやなぁと、それをものすごく実感
する出来事が数ヶ月前にありまして、自分でも予想外にその
ことを引きずっていて、考えさせられています。


誰でも「自分が正しい」と思いたいし、思っているものなのでしょ
うが、「一つの正しい答えだけがある」訳ではない事の方が多い
でしょうし、人それぞれに違っていて当たり前ですよね。


犯罪やルール/マナー違反など、人に迷惑や被害をかけたり、
不当に人を傷つけてしまうような、価値観や考え方の違いでは
済まされない事はあるとは思うので、そういった事は別として、

「自分の意見・価値観だけが正しい訳ではない」
「自分以外の人が自分の気に入るように行動する義務は無い」
「自分が思っている事が事実とは限らない」

ということ、そして、

「自分は物事の一面しか観ていない」
「自分にはわかっていないことがたくさんある」
「自分の事ほど気づいていない・わかっていないものである」

といったことを、この記事の冒頭部分の内容に加えて、肝に銘じて
おく必要があるなぁと思います。


ブッダが説かれたとされている、「物事をありのままに観ずに、
自分本位に歪めて捉えていることが苦しみの原因である」という
ことが、今、私にはとても納得出来ますし、人は“気づき”を欠く
ことで、自分で自分を苦しめている状況になり、更に、自分と
関わる人達にも悪い影響を及ぼしてしまうとも体感しています。

気づいていなければ、巻き込まれっぱなしで、対処することは
出来ないですし、自分を省みることも出来ずに、悪循環に陥って
しまうのではないかと。


私は、スピリチュアル系でよく言われている“二極化”ということは
好きではありませんが、特に醜さなどのネガティブな部分を都合良く
編集せずに、「ありのままの自分をそのまま真っ直ぐに観る・識る」
ことをするかしないかという“二極化”はあるんじゃないかと思って
います。


ヴィパッサナー瞑想とテーラワーダ仏教(原始仏教)に出会って
約1年半。実践・学びはまだまだこれからですが、それらを通して
少しずつでも苦しみから解放されて、楽に安らかな心で生きていけ
るようになりたいです