カレンダー『道を拓いた女性たち』20196月はマリア・ジビーラ・メーリアンを扱っています。

 

マリア・ジビーラ・メ―リアン(1647-1717) 芸術家、自然研究者

Maria Sibylla Merian

 

 「かの女の著作は『驚嘆に値する』」とクリストフ・アルノルト(1650-1695)は1679年にメーリアンの著書『イモムシの驚くべき変態と驚くべき食草』の序文のなかで書いた。

 マリア・ジビーラ・メーリアンは1647年にマイン河畔のフランクフルトで版画工であった高齢のマテアス・メーリアンの娘として生まれた。かの女は養父マレルの工房において花の絵画と版画の薫陶をえた。それと並行して、かの女は若い時からさまざまな昆虫を観察した。最初は蚕だった。「その後わたしは、他のさまざまなイモムシが蚕よりもはるかに美しい蝶や蛾がなることを確認したのです。そのことは、わたしが見つけることができたすべてのイモムシを収集し、その変態をみつめ...そしてそれらのすべてを自然に近い仕方で描き、かつ叙述するきっかけとなりました。」マリアの生活は多面的で、そして変化に満ちたものでした。1665年に、かの女はマレルの弟子であったヨハン・アンドレアス・グラフと結婚した。結婚3年目に娘、ヨハンナ・ヘレナが誕生し、そして10年後にはドロテア・マリーが誕生した。1670年にはニュルンベルクへの引っ越しが行われた。その地でメーリアンは絵画、刺繍および版画のために独自の事業を起こした。1682年のグラフとの離婚後、かの女は母親および2人の娘たちとともにオランダのヴェストフリースラントにおける世界から孤立したラバディ派新教徒のコミュニティに身を寄せた。母親の死後、かの女はそのコミュニティを去り、そして1691年には娘たちとともにアムステルダムに移った。アムステルダムで、かの女は「さまざまな美しい生き物たちが東インドや西インドからもたらされている」ことを知り、「実に驚きである」と述べた。ついに、かの女は娘ドロテアとともに16996月に南米のスリナムに旅立った。かの女は研究に熱中し、さまざまな昆虫を飼い、そして観察したことを描いた。他のヨーロッパ人と同様に、かの女は自分の奴隷を保有した。アフリカ人男性とインド人女性であった。同時代の学者や科学者と違って、かの女は動植物の発見や対処に際して、奴隷たちの支援を承認した。

 奴隷たちと共に、かの女は森やプランテーションで植物や昆虫を探した。1701年にメーリアンと娘は病気のためにアムステルダムに戻った。その後、アムステルダムにて、かの女の『昆虫本』がオランダ語とラテン語で出版された - かの女自身によって刊行、販売されたのだ。1717年にマリア・ジビーラ・メーリアンはアムステルダムで、国際的に有名な人物として亡くなった。かの女のさまざまな水彩画や刊行物はヨーロッパじゅうに知られていた。なんといっても、かの女のイモムシに関するさまざまな本や昆虫本はオランダ語、フランス語そしてラテン語で何版も重ねていたのだから。メーリアンのさまざまな著作では、説明文と絵が植物上での昆虫やその幼虫の叙述にあたって見事な統一性を示していた。その結果、個々の生命循環がスケッチと彩色によって厳密に描写されていた。

 今日、それはエコロジー的な視点であろう。ナタリー・ツェモン・デーヴィス(1928-)はメーリアンを次のように描写した。「知識欲と好奇心...意志が強くかつ寡黙であり、多面的な才能を有し、そしてさまざまな宗教上の、そして家庭的な変化があっても、如才なく自然のさまざまな美と関連を求め続けた。」