カレンダー「時代を拓いた女性たち」 19195月はサラ・ゾンヤ・レルヒ(1882-1918)です。

 

 「わたしはひじょうに悪い気分で、ものすごく落ち込んでいます。ロシア革命は運命に翻弄されてしまっており、そこでは、すべてのわたしの理想 ―軍備縮小と自由、何よりも諸国民の自由― が、すでにだめになっていることを、わたしは存じております。世界の解放が実現されうるとされたのですが、実際はフランスに対するドイツの勝利のための手段になるという滑稽な喜劇が実現されてしまいました。できるならトロツキーとレーニンを絞首台にぶら下げるか、あるいは精神病院に閉じ込めたいです。というのは、2人はそれぞれドイツのスパイであるか、あるいは常軌を逸しているかのどちらかであるからです。3つ目はありません。というのはトロツキーとレーニンは自分たちの同志(プレハーノフやその他の人々)を監獄に入れる一方で、ドイツ軍の代表者たちには格別寛容に接しています。そして本来味方であるはずのリベラル派の人々を大砲で撃つ一方で、ヘルトリンクのようなドイツの偉い軍人たちには服従しています。...そのような矛盾は、かれらが裏切っているか、あるいは買収されていることを証明しています。わたしはショックのあまり苦悩しているのです。」そのように1917年クリスマスにミュンヘンに住んでいたある女性が友人の女性への書簡に書いている。かの女はロシア革命に失望しているのだ。その数週間後、かの女は1月ストライキを指導していたクルト・アイスナー(Kurt Eisner, 1867 - 1919)とともに労働者およびUSPD(独立社会民主党)の支援をしていた。かの女の目標は平和であり、かの女の名前はサラ・ゾンヤ・レルヒであった。(生まれたときの名字はラビノヴィッツ)。しかし国家は冷酷に攻撃を加え、そしてすべてのストライキ参加者を国への裏切りのゆえに拘束した。最前線での殺戮はさらに継続された。

 ゾンヤ・レルヒは、学位を有する国民経済学者であったが、監獄に入れられた。勾留緩和の何度かの申し込みは厳しく拒否された。迫る離婚と激しい歯の痛みでかの女が苦しんでいたにもかかわらず拒否されたのだ。治療をしてもらえるどころか、ゾンヤ・レルヒは独房に入れられた。8週間後、1918329日に、かの女はシュタッデルハイムのかの女の独居房で死んでいるのが発見された。-首を吊っていた。ゾンヤ・レルヒって誰?ある高慢な教授婦人が主張しているように、亡くなってもまったく惜しくもないロシアのステップ地帯の復讐の女神であったのか?あるいはかの女の忠実とは言えない夫が思っていたような純粋の理想主義者だったのか?あるいは経験ある革命家だったのか?最近の資料は、1897年に創設された一般的ユダヤ労働者同盟のために共謀活動をしたロシア系ユダヤ人女性であったことを明らかにしている。その「同盟」はユダヤ人プロレタリアートを社会主義に味方させようと欲し、そして社会主義ロシアにおける東欧のユダヤ人たちの地位を強化させようと欲した。1905年に同盟員たちはロシアの4つの大都市で自分たちの偉大な時がやってきたと思った。ゾンヤ・ラビノヴィッツ(サラ・ゾンヤ・レルヒのロシア時代の氏名)はオデッサにおいて革命を実行し、1907年に拘禁され、そして4か月の勾留後、コンスタンティノープル経由でフランクフルトに逃げてきた。そこでかの女はヨハンナ・テシュ(Johanna Tesch, 1887-1945)を中心とする社会民主党の婦人運動に加わり、国民経済学で学位を取得した。ハインリッヒ・オイゲン・レルヒ(Heinrich Eugen Lerch, 1888-1952)との結婚後はめったに世間の関心をよばなくなっていた。かの女への共感的な追悼文のなかで、クララ・ツェトキン(Clara Zetkin1857 - 1933)1918年に次のように書いた。「レルヒのような人間的偉大さと善意と騎士道性を有する人物がいなくなったことは、高貴な、犠牲的な精神のそれでなくても不安定な生きる意志を打ち砕く打撃(である)。」