~参考~
「梅毒」感染:6千人/年超時代/

「フェラチオ」「クンニリングス」でも感染する梅毒【口腔咽頭梅毒】

新規・性感染症/「梅毒」(約6000人↑)

「HIV」(約1300人→)「エイズ」(約400人→)

〔「梅毒」感染:2018年11月18日:6096人、

48年ぶり1970年(6千人/年超)と並ぶ〕

「カトリック聖職者の8割は同性愛者、秘密主義で

虐待正せず」(仏社会学者フレデリック・マルテル)

 

 

 

1870-1880年代の花魁

 

 

 

 

 

参考

 

参考

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考

 

参考

 

 

 

 

 

 

 

花魁(おいらん)の歴史


~花魁(おいらん)という言葉~

花魁(おいらん)は

江戸時代の遊女の位の高い人…というくらいしか

イメージがわかないといった方は多いでしょう。

外国人にとっては、
舞妓さんと花魁の違いも分からないくらいで、
派手な方が花魁、
今も存在するのが舞妓さんと思われているかもしれません。
花魁は昔の位の高い遊女で会ったことには
間違いありませんが、
そもそも「花魁」という言葉は
18世紀の半ば以降からしか使われていません。
もともと江戸時代の遊女屋で働く女郎で、
格上の「太夫(たゆう)」と呼ばれていた女郎のことを、
見習でついていた少女が
「おいらんちの姉さん」と呼んだことが
「花魁(おいらん)」の起源だといわれています。
その頃、
京都や大阪でも最高位の遊女のことを
「太夫」と呼んでいましたが、
吉原で高級遊女を「花魁」と呼ぶのが一般的になる
につれて、全国的に「太夫」は「花魁」に変わっていきました。
ちなみに「花魁」のもととなった「太夫」のその前の名前は
「傾城(けいせい)」と呼ばれており、
「城が傾くほどお金がかかる高級遊女」という意味です。
しかし、
さらにその「傾城」のもとをたどると
中国の歴史に残る四大美人からきており、
「城の主が色に溺れて城が傾くほど入れあげる美人」
ということで
世界三大美人である楊貴妃もその中に入っています。
花魁は一流の高級遊女なので、
ただ美しいだけではなく、
15歳くらいまでの間に舞踊、和歌、お茶やお花、
琴や三味線などをみっちり仕込まれます。

こういった教養と美貌を合わせ待った一握りの遊女しか

花魁にはなれなかったのです。

 

~遊女(花魁)の歴史について~

江戸時代、

傾城(けいせい)屋という遊女屋が

あちこちに点在していましたが、

風紀や治安の乱れを恐れ、

徳川幕府は遊女屋を認可して一区画にまとめました。

この時徳川幕府が提供した場所は、
今の人形町のあたりで当時は葦の茂る僻地で
「葦屋町」と呼ばれている区域だったため
「葭原(よしわら)」の由来となったと言われています。
これが江戸で初めての遊郭「葭原(よしわら)遊郭」で、
1617年に設置されたが明暦の大火で焼失し、
浅草方面に移転し、
吉原遊廓として、
京都の島原遊廓、大坂の新町遊廓と並び、
三大遊廓として栄えました。
その中でも吉原は日本一の花町と言われ、
敷地は2万坪、
遊女は数1千人いたともいわれています。
そんな吉原遊廓も、
明治期以降になると徐々に縮小されていき、
1957年(昭和32年)4月1日の売春防止法施行によって
約340年に渡った営業に幕を下ろしました。

18世紀半ばに呼ばれるようになった高級遊女の「花魁」は

1950年に行った花魁道中が最後の花魁道中だったようです。

参考

 

花魁(おいらん)の階級

~時代とともに変わる花魁の階級~

花魁(おいらん)と呼ばれるようになったのは

18世紀半ばからのようで、

遊郭が認可された時には

「太夫(たゆう)」と「端女郎」の二つ階級しかありませんでした。

その後、
稼ぎや美貌、教養によって
「太夫」「格子」(大阪では「天神」)
「局(つぼね)」
「端女郎」
「切見世女郎」
という階級があり、
ここでいう「太夫」だけが花魁と呼ばれるようになっていきます。
一番下の「切見世女郎」は「鉄砲女郎」ともいわれ、
安くて多くの客をとっていたため、
当時流行っていた梅毒にかかりやすかったため、
当たると病気になって死ぬかもしれないことから
名づけられていました。
このころまでは、
一部の富豪の遊び場だった遊郭ですが、
「散茶女郎」の出現により次第に庶民化していきます。
散茶とは挽き茶のことで、
煎茶は袋などに入れて沸騰中に振り出すが、
散茶は振り出さないで飲むことから、
客を振ることがある太夫や格子と違って、
客を振ることがないことから
「散茶女郎」と呼ばれるようになりました。

この「散茶女郎」の階級は「格子」の下、

「端女郎」の上の位置しますが、

庶民化した遊郭遊びにおいて振られる可能性のある

高額な「太夫」や「格子」は徐々に消滅していったため、

「散茶女郎」が格上げされて最高位となり、

花魁と呼ばれるようになりました。

 

~散茶女郎が花魁となった後にも階級があった~

散茶女郎が花魁と呼ばれるようになりましたが、

その花魁の中にも階級ができてきます。

階級は大きくは三つに分けられており、
「呼出し」「昼三」「付廻し」と呼ばれる遊女です。
この下に「座敷持ち」「部屋持ち」「局」
といった階級がありますが、
花魁は「付廻し」までの遊女のことを指します。
「呼出し」は「新造付き呼出し」ともいい、
「振袖新造」という見習の遊女をつけた最高級の遊女で、
張見世は行わず、揚屋を通して呼び出さないと会えません。
呼び出された花魁は、
新造や禿(かむろ)という見習の少女を従えて、
揚屋と女郎屋を練り歩いていく花魁道中をしました。
(張見世とは、
遊女が格子の張った店先に座って外を通る客に
自分の姿を見せて、客を待つことです。)
揚代が金三分の「昼三(ちゅうさん)」、
揚代は二分で昼二ともいわれていた「付廻し(つけまわし)」も
さらに、様々な種類があったといわれています。

これは、

江戸後期以降の日本一の色街だった吉原での階級ですが、

京都、大阪、長崎など地域や時代によっても

階級の分け方や呼び名は違っていました。

 

~参考~
〔吉原遊郭の構造 遊女 階級〕