参考

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=XZZIKE6Q7LY&t=20s

https://www.youtube.com/watch?v=JocpbOQDpP4&t=32s

 

https://www.youtube.com/watch?v=jHQ5vtwKNhQ&t=2s

https://www.youtube.com/watch?v=fvj04bZlhX0&t=25s

https://www.youtube.com/watch?v=cCMpI22mYz0&t=42s

 

https://www.youtube.com/watch?v=rCXyoVddh1Y&t=18s

https://www.youtube.com/watch?v=f3w6mn09sw4&t=21s

https://www.youtube.com/watch?v=3iYkTLfQE9s&t=23s

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=P59WillSho0&t=4s

https://www.youtube.com/watch?v=Ck75O2UX1ps&t=29s

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=YVB3qi8Lvo8&t=229s

 

参考

中原中也(なかはら ちゅうや、

1907年(明治40年)4月29日 - 1937年(昭和12年)10月22日)は、

日本の詩人、歌人、翻訳家。旧姓は柏村。
代々開業医である名家の長男として生まれ、

跡取りとして医者になることを期待され、

小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、

8歳の時、弟がかぜにより病死したことで文学に目覚めた。

中也は30歳の若さで死去したが、

生涯で350篇以上の詩を残した。

その一部は、

結婚の翌年刊行した処女詩集『山羊の歌』、

および、中也の死の翌年出版された

第二詩集『在りし日の歌』に収録されている。

訳詩では『ランボオ詩集』や数は少ないが

アンドレ・ジイドの作品などフランス人作家の翻訳もしている。

日本大学予科、中央大学予科などを経て

東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科仏語部修了。 

 

 

 

[『山羊の歌』出版と夭折]

1934年、10月に孝子が郷里で長男・文也(ふみや)を出産。
11月『山羊の歌』が野々上慶一の文圃堂から
出版されることが決まる。
装丁は高村光太郎、四六倍判、貼函入り、
背表紙は題、著者名が金箔押しという美装豪華本である。
12月10日、3円50銭で市販された。
この後帰省、文也と対面した。
翌年3月まで郷里に留まり、ランボーを翻訳するが、
長門峡に遊んだ際吐血している。
1935年、3月末単身上京。
昨年出版された『山羊の歌』は好評であり、
詩壇とも交流、原稿依頼も来るようになった。
また1月から小林秀雄が『文學界』の編集責任者となり、
中也は4月以後毎号新作の詩を発表した。
しかし詩だけで家族3人が生活していけるだけの
収入は得られず、フクは月100円以上の仕送りをしていた。
中也は文也を可愛がっていたが、
一緒になって遊ぶというより、
文也が遊んでいるのを見守るという接し方だった。
1936年、日本放送協会の初代理事だった
親戚の中原岩三郎のあっせんで
協会の文芸部長との面接に出かける。
定職についてほしいというのがフクの希望だったが
中也にその気はなく、入社することはなかった。
6月25日、山本文庫より『ランボオ詩抄』刊行。
生涯初めて印税を受け取る。
11月、2歳の文也の容態が急変、入院させる。
中也は3日間一睡もせず看病したが、
文也は小児結核で死去。
葬儀で中也は文也の遺体を抱いて離さず、
フクがなんとかあきらめさせて棺に入れた。
四十九日の間は毎日僧侶を呼んで読経してもらい、
文也の位牌の前を離れなかった。
12月に次男・愛雅(よしまさ)が生まれたが
悲しみは癒えなかった。
幻聴や幼児退行したような言動が出始めたため、
孝子がフクに連絡。フクと思郎が上京した。
1937年1月9日、
フクは中也を千葉市千葉寺町の道修山にある
中村古峡療養所に入院させた。
ここで森田療法や作業療法を受け、2月15日帰宅。
騙されて入院させられたと孝子に言って暴れたため、
またフクが呼ばれた。
文也を思い出させる東京を離れ鎌倉町扇ヶ谷に転居する。
5月、『文學界』に「愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません」ではじまる『春日狂想』を発表。
7月、小林秀雄、三好達治ら友人たちの間で
第二詩集出版の話が持ち上がる。
しかし中也は心身を休めるため帰郷を考えていた。
9月、左手中指の痛みを訴え痛風と診断されている。
9月15日、野田書房より訳詩集『ランボオ詩集』が刊行され、
売れ行きは上々だった。
23日、『在りし日の歌』の原稿清書を終え、
翌日小林秀雄に渡している。
夏ごろから良くなかった体調がさらに悪化、
10月4日に横浜の安原喜弘を訪ねた時は、
頭痛や電線が2つに見える視力障害を訴えた。
歩行困難もありステッキをついて歩いていた。
5日、鎌倉駅前の広場で倒れ、
翌日鎌倉養生院(清川病院)に入院。
脳腫瘍が疑われ、その後急性脳膜炎と診断された
(今日では、結核性の脳膜炎とされている)。
15日、フクと思郎が駆けつけたときは
既に意識は混濁していた。
明治大学で教えていた小林は1週間休講にして病室に詰めた。
河上徹太郎は毎日東京から病院に通った。
22日午前0時10分永眠。苦しむことなく安らかな死だった。
通夜は22、23日と2日にわたって自宅で行われ、
24日寿福寺で葬儀告別式が営まれた。
葬儀からほぼ1ヶ月後、
遺骨は『一つのメルヘン』で歌われた
吉敷川近くの経塚墓地に葬られた。

1年後の1938年1月、愛雅が病死。

4月『在りし日の歌』が創元社から刊行された。