~日本民族の鬼畜的悪行は
       永久に歴史に刻印される~
ドイツ人(ゲルマン民族)よりも、はるかに醜い日本民族の本性
最も恥ずべきは、我々日本民族
北朝鮮はもとより、周辺アジア諸国に土下座し続けるのは
日本民族の義務というか半永久的に続く歴史的宿命
鬼畜的加害者側が、
被害者側の完全な赦しも得ないうちに、
勝手に「贖罪」期限を設けるなど、
もってのほか!
こんな状態だから、
「拉致問題」はもとより、
周辺アジア諸国とのトラブルも、
半世紀以上過ぎても、一向に解決しない。
 
参考
 
【靖国神社の起源】
靖国神社の起源は
明治2年(1869)6月29日に建てられた
東京招魂社に遡りますが、
当時の日本は、
近代的統一国家として大きく生まれ変わろうとする
歴史的大変革(明治維新)の過程にありました。
それ以前、日本は徳川幕府の政権下にあり、
約250年にわたって鎖国政策をとり
海外との交流を厳しく制限していました。
ところが、
アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って
日本に対する開国要求が強まると、
開国派と鎖国派の対立が激化し、
日本の国内は大きな混乱に陥ります。
そうした危機的状況を乗り切る力を失った徳川幕府は、
ついに政権を天皇に返上し[大政奉還]、
日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくり
[王政復古⇒立憲君主制]
に向けて歩み出すこととなったのです。
しかし、そうした大変革は、
一方において国内に避けることのできない
不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、
近代国家建設のために尽力した
多くの同士の尊い命が失われる結果となりました。
そこで明治天皇は
明治2年6月、
国家のために一命を捧げられた
これらの人々の名を後世に伝え、
の御霊を慰めるために、
東京九段のこの地に「招魂社」を創建したのです。
この「招魂社」が今日の「靖国神社」の前身で、
明治12年(1879)6月4日には
社号が「靖国神社」と改められ別格官幣社に列せられました。

【靖国神社の御祭神】
靖国神社には、
戊辰戦争やその後に起こった佐賀の乱、西南戦争
といった国内の戦いで、
近代日本の出発点となった
明治維新の大事業遂行のために命を落とされた方々をはじめ、
明治維新のさきがけとなって斃れた
坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作・橋本左内といった
歴史的に著名な幕末の志士達、
さらには
日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・支那事変・
大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や
戦争に際して国家防衛のために亡くなられた方々の神霊が
祀られており、その数は246万6千余柱に及びます。
靖国神社に祀られているのは
軍人ばかりでなく、
戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、
学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など、
軍属・文官・民間の方々も数多く含まれており、
その当時、
日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者
シベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、
大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々などの神霊も祀られています。
このように多くの方々の神霊が、
身分・勲功・男女の区別なく、
祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として
一律平等に祀られているのは、
靖国神社の目的が唯一、
「国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰すること」
にあるからです。
つまり、靖国神社に祀られている246万6千余柱の神霊は、
「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」
であるという一点において共通しているのです。

【靖国神社と日本人】
我が国には今も、
死者の御霊を神として祀り崇敬の対象とする
文化・伝統が残されています。
日本人は昔から、
死者の御霊はこの国土に永遠に留まり、
子孫を見守ってくれると信じてきました。
今も日本の家庭で
祖先の御霊が「家庭の守り神」として大切にされているのは、
こうした伝統的な考えが
神道の信仰とともに日本人に受け継がれているからです。
そして同様に、
日本人は家庭という共同体に限らず、
地域社会や国家という共同体にとって大切な働きをした
死者の御霊を、
地域社会や国家の守り神(神霊)と考え大切にしてきました。
靖国神社や全国にある護国神社は、
そうした日本固有の文化実例の一つということができるでしょう。
 
✴✴✴
 
~参拝中止「それが私の心だ」〕
(2006年7月20日 日本経済新聞朝刊)
 
昭和天皇が1988年、
靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、
「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、
当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていた
ことが
2006年7月19日、
日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。
昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、
参拝しなかったが、
理由は明らかにしていなかった。

昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、
史料としての歴史的価値も高い。
(靖国神社は3面「きょうのことば」参照)
=関連記事3面、社会面に
靖国神社に参拝しない理由を
昭和天皇が明確に語り、
その発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。

「昭和天皇が参拝しなくなったのは
A級戦犯合祀が原因ではないか」
との見方が裏付けられた。

富田氏は
昭和天皇と交わされた会話を
日記や手帳に克明に書き残していた。
日記は同庁次長時代も含む1975~1986年まで各一冊、
手帳は1986~1997年の二十数冊が残されていた。
靖国神社についての発言メモは1988年4月28日付で、
手帳に張り付けてあった。

昭和天皇はまず
「私は、或る時に、A級(戦犯)が合祀され、
その上、松岡、白取(原文のまま)までもが。
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
と語ったと記されている。

「松岡」「白取」は
A級戦犯の中で合祀されている
松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、

「筑波」は
1966年に厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら、
合祀しなかった
筑波藤麿・靖国神社宮司(故人)を指すとみられる。
さらに
「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々(やすやす)と。
松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、
親の心子知らずと思っている。
だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」
と述べている。

この部分の「松平」は終戦直後に
最後の宮内大臣を務めた松平慶民氏(故人)と、
その長男で1978年にA級戦犯合祀に踏み切った
当時の松平永芳・靖国神社宮司(同)を指すとみられる。

同日付のメモの前半部分には、
天皇誕生日(4月29日)に先立って行われた記者会見で、
戦争に対する考えを質問されたことへの感想も記されていた。

会見で昭和天皇は
「何といっても大戦のことが一番いやな思い出」と答えているが、
メモでは一部の政治家の靖国神社を巡る発言にも言及しつつ
「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを表現したかった」
と話していた。

昭和天皇は靖国神社を戦後8回参拝したが、
1975年11月の参拝が最後となった。

参拝しなくなった理由については
これまで、
「A級戦犯合祀が原因」
「三木首相の靖国参拝が『公人か、私人か』を巡り
政治問題化したため自粛した」

との二つの見方があった。

現在の天皇陛下も
1989年の即位以降、
一度も参拝されていない。
昭和天皇、昭和史に関する著書の多い秦郁彦日大講師の話:
富田元長官の日記、メモを見ると、
昭和天皇の信頼を得た虚飾のない律儀な人柄が感じられる。
富田氏は政治的な動きをつつしむ気配りの人だったようだ。
それだけにメモの信頼性は高いと思う。

昭和天皇の靖国神社不参拝問題は関係者の証言が乏しく、
憶測で議論が続いてきたが、
今回、決定的とみられるメモが出てきたため、
今後はこの「事実」を踏まえた議論になるだろう。

故松平宮司は遺族の了解をとらず、
天皇の内意も確かめず、
かにA級戦犯を合祀してしまった。
東京裁判を全否定する
松平宮司の信念はともかく、
必要な手順を踏まずに
まつるべきではなかった。
 
靖国神社(きょうのことば)
▽…1869年(明治2年)、
戊辰戦争の政府側戦死者を慰霊するため、
東京招魂社として創建。1979年に靖国神社に改称。
祭神は近代以降の戦争での政府側戦没者などの「英霊」。
約246万6500柱(2004年10月現在)がまつられている。

▽…合祀(ごうし)は
戦前、陸海軍が審査し、天皇の勅許で決定していた。
戦後は厚生省引揚援護局(当時)が
戦地などで「公務死」とされた人の名簿を靖国神社に送り、
合祀が行われた。

戦犯の合祀は
1959年のBC級戦犯から始まった。
厚生省は1966年、
死刑あるいは公判・服役中に死亡した
A級戦犯14人の祭神名票を送付し、1978年に合祀された。
 
✴✴✴
 
 
明治2年6月、
国家のために一命を捧げられた
これらの人々の名を後世に伝え、
その御霊を慰めるために、
東京九段に創建した「招魂社」当初の
明治天皇の意図からは、
戦後大きく歪められた「靖国神社」の基本方針。
昭和天皇が特に「A級戦犯の合祀」に起因し、
1975年11月~参拝永久中止したことはもとより、
平成天皇が1989年の即位以来、
一度も参拝していない真意も、
その嫌悪感に起因していることは常識的に明らか。
 
また、
>日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者
・・・などの神霊も祀られています。
 
犯罪加害者(植民地「支配側」)と
犯罪被害者(植民地「奴隷側」)が
強引に合祀されるなど、
後者の御霊&遺族にとっては、
はらわたが煮えくり返ってたまらんやろ。
それほど、自己愛(ナルシズム)のみが増長し、
周辺アジア諸国の気持ちを踏みにじってまでも、
自らの意思を強行する鬼畜的民族性。
国家の最高規範「憲法」ですら禁じている
「政教分離」に抵触するのは明らかにもかかわらず、
毎年のように参拝を強行する
国家要人連中(特に、自民党関係者)
特に現代社会においては、「神社」の範疇を超えた
単なる「侵略民族の象徴」に過ぎず、
特に、周辺アジア諸国の感情を逆なでする
戦後の不穏なアジア動向の元凶なのであって、
今後の日本の教育においても、
従来のような「自己愛(ナルシズム)史観」ではなく、
これらの点を加味した「自虐史観」の徹底こそが
特に、アジア諸国の真の平和(調和)に
直結するのではないでしょうか。
「靖国神社」に関しても、
前身たる「招魂社」創建当初の状態に再築するか、
場合によっては、「靖国神社」そのものを消滅させる
ことも視野に入れるべきだと感じる。
 
 

【昭和初期(昭和元年~昭和16年)~悲劇は繰り返す〔歴史的カルマ〕】

 

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↑関東大震災当時、自警団による朝鮮人虐殺の場面。
日本権力の流言飛語で騙され、朝鮮人を虐殺している村の自警団。

日本官憲では、虐殺した朝鮮人達を、身元を分らないように、
地震に因って死亡した日本人たちの中に混ぜておき、
火に燃やしてしまうなどで証拠を隠滅した。
生き残った在日同胞たちは、
極度の恐怖と不安感に震え、数日を送らねばならなかった。
この時、およそ6661名(上海臨時政府調査記録)の
在日同胞・移住労働者達が、集団虐殺された。
 
最も恥ずべきは、我々日本民族

 アジアの「ガン細胞」が、我々日本民族

日本民族は例外なく地獄の裁きを

延々と受け続けなければならない。

呪われた、穢れた民族性を完全浄化する趣旨でも、

    日本民族は自主的に滅亡するのが歴史的&民族的宿命

       神の裁きは素直に受けなければならない。

PS

 

〔「日本は過去の清算を」=北朝鮮 〕
(2017年8月15日)

朝鮮中央通信によると、

北朝鮮の「朝鮮日本軍性奴隷および強制連行被害者問題対策委員会」は

2017年8月15日、報道官談話を出し、

「日本当局は今からでも、自ら(北朝鮮への)敵対政策を転換し、

われわれとの過去の清算に臨まなければならない」と訴えた。
報道官は「日本がわが国の『脅威』について大げさに騒ぐなどして、

極度の敵対感情や憎悪を助長しているのは、

われわれとの過去の清算をどうにかして回避することを目的としている」

と主張した。

 

〔韓国“慰安婦の日”各地で行事 プラスチック製の像乗せた路線バス運行、
広場では500体のミニチュア展示も〕
(2017年8月14日)
韓国で市民団体などが「世界慰安婦の日」と定めた

2017年8月14日、各地で慰安婦像設置などの行事が行われた。
ソウル市内ではプラスチック製の慰安婦像を乗せた路線バスが運行。

車内では、慰安婦を描いた昨年公開の映画、「鬼郷(クィヒャン)」に

音声として登場した民謡「アリラン」が流された。
バスには朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長も朝から乗り込み、

慰安婦像に手を添えるなどし、

慰安婦問題をめぐる2015年の日韓合意に代わる

「新たに国民が納得できる合意」が必要などと強調した。

“慰安婦バス”は9月いっぱい、運行される。

 

鬼畜の日本国家によって

強制的に植民地化され

奴隷的(&非人道的)扱いを受け続けた

北朝鮮、韓国、中国、台湾等の周辺アジアは、

正論を述べているのに過ぎない。

常軌を逸しているのは、昔も今も、

我々日本民族なのであって、

(真摯な反省はもとより)

そのことに滅亡するまで気づかない

徹底した(自民族にとって都合の良すぎる)

神風志向「自己愛(ナルシズム)史観」の

馬鹿民族。

自民族の戦没者の慰霊は後回しにして

(あまりにも理不尽な形で)

日本の生贄とされた

周辺アジア諸国の名もなき大勢の御霊を

半永久的に真摯に慰霊継続するのが

人道的&道義的にも本筋だろ!

 

時に、穢れた&呪われた

日本民族の一員であることに、

猛烈な嫌悪感をもよおすことがある。

 

本来であれば、

民族的連帯責任として、

日本民族は(天皇&皇族も含め)

一人残らず集団自決をすべきであった

と言っても過言ではない。

 

今後は民族に魂の奥底まで染み付いた

エゴで排他的なナショナリズム

を、徹底的に克服しなければならない。