1 明日なき男 | 蛇のスカート   

1 明日なき男

   

籠から抜け出た小鳥の心境で息を吐き、俺はタイムカードを通した。はいはいと電話を受け答えしている事務の女に目が移る。真赤な口紅に白粉を塗った電話役の女。あの女は仕事をしているが、俺は仕事をしていない。だが車など野菜のように売れるわけがない。天上の蛍光灯を見る。俺の頭から突如、ごちゃごちゃしたセールス文句や顧客名簿が消え、真っ白になった。俺は何故ここに居るのだ。何故スーツを着て立っているのだ。

ダンヒルのスーツで決めた今田の丸い顔が浮かんだ。愛知県にいる親友。叔父が天下のガオス自動車の役員。大して能力があるとは思えないが、新卒で入社し、今ではボーナスが手取りで百万円は軽く超えるという。去年、俺が勤めていた出版社が倒産し、路頭に迷って今田に電話した。大阪にある取引先の会社を世話してくれたのだ。

俺向きではないが、仕事がないから仕方ない。免許はあるが車の知識も、技能もない。縁故が車だっただけの話。立派な会社を世話するのは今田にはまだ無理で、紹介してくれたのは、世知辛い会社だった。正社員と銘打っても歩合が出ず、サービス残業すれば時給七百円。今田が配置転換になると、俺は頻繁に怒鳴られるようになった。

俺は事務所を蹴って出た。宝石のようにボディーを光らせたショーウインドウを一瞥し、裏に回って通勤自転車に乗る。家でも売ろうか。いや、もっと難しいだろう。そもそも営業職に向いていないのかもしれない。

国道バイパスを横切ろうとすると、信号に五tトラックがアイドリングしていた。俺はもう二九。トラックに乗るには遅いか。あれもサービス残業だらけで危険らしい。猛スピードで左折するタクシーに気が移る。まだ養う妻子もいないし、あれに乗るのは三十代が終わってからにしよう。のろのろペダルを踏んでいくと、建築中の家が目に留まった。材木を担いだ若者は白い歯を見せ、健康的に見えた。大工の修行でもすれば良かったか。俺はコンビニに立ち寄り、新聞、缶コーヒー、求人誌を買う。一年前のよりかなり薄い。二十前後の女店員は、愛想良く、はきはきした声で百円玉を四つ確認し、ビニールに入れて十円玉とレシートを渡してくれた。

今の俺の現実を知られたが、店員は何のそぶりも見せない。丸顔で可愛らしい目。時給六百五十円で店員募集のポスターがあった。六時間だから日当三千九百円。不満を漏らさずよく立っていられるものだ。俺と同じで、もうじき辞めるかもしれない。この女も行き場がなかったからレジを守っているだけ。親にカネかコネがあれば、何処かの大学生かOLだっただはず。彼氏が高給取りなら、掃除洗濯をし、寝転んでDVD観賞の時間帯か。

俺は袋を自転車籠に入れ、公園までこいだ。夕暮れのベンチに座り、缶コーヒーを開ける。かちゃ、かちゃ、後ろから音がした。振り向くと、ホームレス風の男がアルミ缶潰していた。踏み付ける姿がリアルに迫る。俺も将来ああなるのか。江戸時代の農民は「上を見て生きるな、下を見て生きろ」と叩き込まれたが、今でも当て嵌まるだろう。

上は限がない。大企業のサラリーマン、山田に飲みに連れて行ってもらった時、意外なことに本人は不満を漏らした。彼は仕事柄、門構えからして桁外れの邸宅に赴くらしい。下駄箱の靴のように高級車を並べ、玄関を開けると骨董品が唸り声を上げていたと感嘆する。奴の頭は「お屋敷に比べれば」のレベルになっていた。

出版社の薄給に頼れない俺は、インターネットで有り金を投資した。が、高値を掴んだらしく、瞬く間に半額になり、未だに浸けたまま。損切りする勇気も無い。

自転車を転がしながら考える。どこで人生を踏み外したのだろう。多分、文学部に入り作家を目指した時かもしれない。作家になれずとも、何とか、零細の出版社に就職できた。五年間、風変わりな社長の下で、手足となって働いた。俺が手掛けた本が売れたこともあった。さあこれからという時、社長が数億の借金を残して行方をくらませた。失業保険が切れ、山田に頼った。人生がリセット出来たはずだったが、本日、六月一日、クビを宣告された。

パチンコ屋のネオンが光る国道沿いに目を細める。サラ金の無人貸出機は鴨を待ち構えている。三ヵ月後には世話になっているかもしれない。自転車を漕ぎながら、受けた教育を呪う。安定した仕事を続けているのは一握り。大多数は食うだけが精一杯。英語や数学は不要。社会科で憲法の平等を教えられても、会社では餌をくれる主人に逆らえない。良い飼い主に出会えれば幸せだが、悪い飼い主なら虐待されるし、挙句には野良犬になってしまう。

俺はスーパーへ行き、半額の寿司と刺身を買った。帰りがしら、学習塾の看板の下から、開放感で笑う中学生の集団にぶつかりそうになった。腕章を付けた指導員が見送っている。点取り虫になれば、親が餌をくれなくなる頃には、まともな職業に付けるかもしれない。だが大企業とてリストラをする。さっきの公園の男にしても昔は銀行の支店長だったかもしれない。今は缶を踏んで暮らす毎日。一寸先は闇。

俺は棲家に戻った。築三十年の六畳一間。ちゃぶ台の膳に刺身と寿司を乗せ、求人誌を捲る。ガオス自動車が期間工を募集していた。日当九千円で満了金が出る。末端の営業より儲かるが、ライン作業は過酷といっていた。食いながら新聞を捲ると、自動車メーカーの記事がある。高級車の海外輸出で儲けているらしい。工場は忙しそうだが、頑丈でないから続きそうに無い。しかも何のスキルも身につかない期間限定の作業。体を壊したり、期間が満了した後は、元の木阿弥、また探すわけか。

気晴らしにスポーツ欄を読んでいると、突如、血の気が引いた。トイレに行って、嘔吐し、流す。息が苦しく、動悸を感じる。A4の封筒を取る。右手を突っ込んで、押し広げ、紙袋にした。巾着のように入り口を絞り、口に当て、しばらく呼吸をする。犬の吠え声に耳を傾け、何も考えない。次第に脈拍が減少し、動悸が収まっていく。ゆっくりと呼吸を整え、紙袋を口から外した。畳の上に仰向けになった。

ストレスや精神不安から生じた過喚起症候群は、二酸化炭素を吸えば治る。湿り気を帯びた畳の上に大の字になり、静かに腹で息をする。発作は収まった。今日、会社をクビになってしまったから再発したのだろうか。

緑に光る時計の針は、九時十分をさしていた。パニック症は完治せず、体の芯に食い入っていた。初めての発作で激しい動悸に襲われ、死に掛けた悪夢を思い出す。部屋に酸素が少ないのかと窓を開けたが苦しい。救急車を呼んだ。それからも突然の呼吸困難に襲われるようになった。人前で何度も紙袋を吸い、地下鉄の中で動悸を感じる。

脈を診て、心臓の鼓動が正常に戻ったことを確認する。起き上がり、長く垂れた電灯の紐を一回引っ張った。がらんどうの部屋が浮かび上がる。俺は新聞の株価欄を見た。ビッグソフトは五百円にまで下がっていた。去年、二千円で買ったIT株。某有名アナリストの推奨株。欲に駆られ、安給料を節約して貯めた四百万円を根こそぎ投資した。今では手数料引いて百万円も返って来ない。胃の辺りが重苦しい。リストラに遭い、こんなに下落するとは。戻ってくる可能性に賭け、今をどう凌ぐか。死んでも損切りしないとなれば、今は手持ちが五万円弱しかない。サラ金に手を出さないと本当に死んでしまう。

ゴキブリが明かりに晒されていた。俺も驚いているが、相手も驚いていた。鼠の子供ぐらいの大きさはある。物がない部屋は隠れ場所が無く、新聞紙に隠れようとこちらに突進してきた。とっさにティシュの箱を掴んで、叩き殺す。付いた汁をティッシュでぬぐう。壁にある雨漏りのような茶色いしみを凝視する。

俺は再び電灯の紐を引っ張り、明かりを消した。アパートの周りは人気がない。時折、自動車のエンジン音が伝わるものの、静かだ。ただ暗黒の荒波に飲み込まれている。

哀れなゴキブリだ。ゴキブリにさえ生まれなければ、いや、餌もないこの部屋にさえ迷い込まねば、意味もない死を迎えることも無かったであろう。余計な命だ。俺も本当は産まれるべきではなかったのかもしれない。が、肉体を持って世界に存在してしまった以上、ネズミやゴキブリのようにゴミ箱を漁ってでも生きるしかないのか。

俺は今生きているのを実感する。呼吸を味わい、心臓の鼓動に耳を傾ける。沸き起こる生命力からまだまだ死なないのを確信する。生きるために、外部の物質を体内に取り入れ続ける。ゴキブリも、鼠もカラスもこの原則に従って行動しているだけ。生命が維持されるためには奇麗事は言っていられない。追い込まれれば、悪徳商法や恐喝、売春、殺人までやるかもしれない。何をしでかすか分からないから、法律が山ほど敷いてあり、警察や軍隊が抑制している。すると俺はあのゴキブリのように暴力で叩き潰される運命なのか。

闇の中で大きく瞳を凝らした。暗闇が死に思える。汗臭い六畳は窓が、厚手のカーテンで完璧に閉ざされている。光は届かず、どろどろした現実の沼に沈んで行っている。手を伸ばして掴むものは無い。誰か救いの蜘蛛の糸を、さらりと落としてくれないか。

俺の前には薄汚れた電灯の紐がぶら下がっているだけ。引張る。黄色い光線が広がり、ちょっぴりと活力を与えた。時計を見る。もうすぐ銭湯が閉まる。ゴミ袋の中に入れてある下着を取り出し、石鹸の入った洗面器を携え銭湯に向かった。