2 踊る中年男 | 蛇のスカート   

2 踊る中年男

   

暖簾をくぐると、番台の老婦人はテレビを睨んでいた。回数券を千切って渡す。服を脱ぎ、シャワーを浴びる。日雇い労働者らしき壮年の男がやってきて、湯船から水を汲み、カバのごとく掛け始めた。床のタイルに弾かれた水沫が、俺の身体に跳ね返る。男が今日はやけに身近に感じられ、不快感を催さなかった。

銭湯でさっぱりした後、タオルで髪を擦りながら夜道を歩いた。生暖かい空気を浴び、夏が近づいているのに微笑んだ。銭湯の側にコンビニがある。青白い外灯が足元のアスファルトを神秘的に照らしている。下弦の月を眺めながら歩いていると、ざっ、ざっ、と土をけりつける音が聞こえてきた。何だろうか。公園に金網越しで目をやった。その刹那、息を止め、足も止めた。タオルをぬぐう手も止まる。

夜の公園で、誰かが足踏み運動をしていた。公園の端を見る。巨木が枝を垂れ提げ、その根元に照らされた灰色の土に、人影が点いたり消えたり、伸びたり縮んだりしている。

これはただ事ではないと目を凝らす。よく見ると男が盛んに足踏みをしながら、翼を広げるような格好で両手を動かしている。両手を後ろに回し上げ、鳥を真似しているのかと思うと、雨乞いのごとく両手を天に突き上げた。今度は片足でケンケンをしている。

頭がおかしいのだろうか、と金網越しに見つめる。精神を患ったか。いや自殺の予兆なのかもしれない。欲求不満と言葉に表せない何かが、あの男を狂気に駆り立てているのだ。

一体何者だ。俺は好奇心には勝てず、恐る恐る男の方に近づいた。男はこっちに気付いていないようだ。憑かれて乱舞している。知らん顔をして公園に入った。ざっ、ざっ。未開の踊りに耽る男を、横目で観察する。Gパンに白いTシャツ姿。何処にでもいそうな中年男はぶつぶつ念仏を唱えている。何だろうか。

髭男は頭を上下左右に振り、神降ろし状態になっているようにも思える。

男の声が鼓膜に届いた。

「ほーっ、ほっほっほ、大地の踊り、大地の踊り、ほーっ、ほっほっほ、大地の踊り、大地の踊り……」

俺は角度を変えて観察することにした。離れた木製ベンチに腰を降ろす。濡れた髪をタオルでぬぐう。外灯が届き、男の様子がはっきり分かる。それでいて俺の姿は樫の木陰に隠れて良く見えない。なかなか絶妙な場所である。

俺はベンチに座って足組みをした。ざっ、ざっ。ほーっ、ほーっ。吠え声が夜風と共に伝わってくる。銭湯から上がって体はすっきりしている。濡れた短い髪はほとんど乾いた。ベンチに左手を突っかけ、首を傾げる。大地の踊りとは何だろうか。聞いたことも無い。この男、何かの宗教でもやっているのではないか。この踊りはアフリカ大陸直伝のものか。BGMなしで様になっている。何か伝えたい熱意がある。舞台稽古でもしているのか。

髭の中年男に見とれていると、突然、男は飛ぶ鳥を捕まえるように手を叩きながら公園を走り始めた。外灯の向こうへ跳ねたかと思うと、すぐに反転し、死角になっているはずの俺のベンチにやって来やがった。

大いに焦った。頭のいかれた男が、こちらにやって来るではないか。通り魔に襲われる恐怖を感じ、逃げようとベンチに置いた洗面器を手に取った。が、もはや時既に遅し。

男は俺の存在に気がついて足を止め、我が子を迎え入れるように手を広げて近づいてきた。そして事もあろうに自分の前で盛んにその得体の知れない踊りを披露し始めた。どうやらコミュニケーションを取ろうとしているらしい。

「ほっほ、大地の踊り、ほっほ、大地の踊り、ほーっ、ほーっ、大地の踊り……」

男は全身を揺らして公園の土を踏みしめていた。この踊りはバランスが取れて洗練されていた。多分何度もここに来て踊っているのかもしれない。

最初、白眼視し、いつ逃げようかと警戒していたが、髭男の踊りに見とれているうち、警戒は徐々に解けた。というより、どん底に陥っていた俺は、誰も軽蔑する気になれなかった。この世は何でもありだ。変わった奴も理解してやろうではないか。

服装は現代人だが、心が原始的なのだ。きっと昼間はばりばりの常識人だが、その反動で夜中には突如、変身願望に襲われているに違いない。

ざっ、ざっ。跳ねる足のリズムに惹かれるものがあった。男の足につられ、俺の首が上下に震えた。催眠術に掛ったように、今度は足踏みを始めた。音頭を取る。最後にはベンチから立ち上がった。

仲間が欲しいのか。こうなったら一緒に踊ってやろうと、立ち上がって男の側で身体をくにゃくにゃさせた。やけくそや冗談の気持ちだろうか。いや、俺を誘う力は、それ以上に奥が深いようで、体が勝手に動いた。

俺は足踏みをして両手を上下させる。男は仲間を獲得した喜びを体現し、「ほ~~っ、ほ~~っ」と両手を広げて、迎合するように盛んに踊り出した。俺もそれに応えるように「大地の踊り、大地の踊り」と男の呪文を拝借して唱え、デタラメに踊った。未開になるのも案外楽しいではないか。体を揺すりながら自己流にこの踊りを解釈した。この踊りはきっと大地に捧げる宗教的なものなのだろう。初対面で言葉すら交わしていないのに、踊りを通じてこの男と会話ができた気がする。リストラに遭って、生活の危機に立たされていることも忘れた。死が俺の足元にあるのも忘れた。今はただ盛んに足踏みをする。

ほっほ、ほっほ……。

相手の真似をしてどのくらい踊ったか。髭面の中年男は踊りを止めた。手を叩いて近づいて来た。はっと首を動かし、急激にクールダウンする。そういや、俺は一体何をしていたのだろう。そうそう、この男につられて怪しい踊りに耽っていたのだ。この男……誰だ? 再び警戒心を抱く。

その瞬間、髭面の中年男が人懐っこい笑顔で俺の緊張を解き放った。

「ああ、すっきりした。どうや、なかなか面白かったやろ」

照れくさそうに小さく笑い返す。

「はあ、何かストレスが解消されたような気がします。踊るって、結構楽しいものだったんですね。少しだけ知りましたよ」

「そうか……。時間あるやろ。ちょっとそこのベンチに座ろうや」

ちょび髭の男は、外灯が明々と照っているベンチの方に俺を案内した。

男はポケットからタバコを取り出して、慣れた手つきで一服する。ゴジラの吐く煙が白いライトに照らされながら空中に舞った。

「吸うか」

「いえ、自分は吸いません。……ここでいつも踊っているんですか」

タバコを咥えた髭男は細い目をさらに細め、遠くを眺めながら答えた。

「毎日やない。月に何度か体が勝手に公園行って踊るんや。時たま無性に踊りたくなる。庭付きの一戸建てに住んどったら、ここに来ることもないやろうに。マンション買っちまってるからな。バブルの頃。ありゃ人生最大の失敗だったわ」

洒落た顎髭を眺めながら、この男が何者なのか推測する。余計なこともべらべら喋る奴だ。マンション? そんなものを買っているなんて金があるのだろうか。このTシャツとGパン姿は金持ちというより、フリーライターかカメラマン、何か自由業の雰囲気だ。年は三十にも見えるし四十にも見える。

「へー、マンション暮らしですか。羨ましいですね。自分なんかもう三十になろうかというのに二万円のボロアパート暮らしですよ。それも風呂無しの。しかも今日、車の営業、といっても背広着たバイトみたいなもんですけどね、辞めさせられちゃって、完全な無職になっちまいましたから。すぐにアルバイトでも探さないと餓死しますね」

俺は半ば投げやりになっていたので、見ず知らずの人物に洗いざらい報告してやった。髭男は真ん中で分けた黒髪を軽くなで上げ、興味深そうに目を細めた。

「ほお、君はいわゆるフリーターって奴か。ある意味そっちの方が羨ましいぞ。自由気ままに生きられるやんか。金がなくても自分の時間があるやんか。それに君には若さがある」

「変なこと言わないで下さいよ。アルバイトしてたら時間なんて大半が潰れますよ。安定も保障も何もない。それに自分はもう二十九歳、来年三十ですよ」

「そうか、君は安定したいのか。でもな、それは幻想や。……俺は今四二で、君が望んでいる安定の状態や。郵便配達をやっているねん。女房もいて、子供が二人もおる。マンションもある。でもな、その安定装置を維持するためには大きな代償を払わなきゃならんのや。まず家族を養わなきゃならん。マンションのローンも後十五年以上残っとる。身動きが取れん。俺の人生はもう終わったようなもんや」

男は大きく煙を吐いた。口から噴出される白い息が、溜まったストレスに見えた。

いとも簡単に自分の生活を暴露したが、そんなに不満があるのか。郵便配達で安定したボーナスや月収入が見込める。子供が二人もいれば生活が楽しくて、公園で踊っていなくても良いのではないか。ストレスが溜まって頭のおかしな踊りをしたくなるのはこっちの方だ。

男は無口になった。ベンチで足を組み、タバコを吸いながら物思いに耽っている。自分を迎えてくれる温かい家庭が待っているのに、何故そこに帰らないのだ。この男も現代特有の、得体の知れない病いに苦しめられているのか。何かに絶望した自殺志願者か。今の生活に不満を持っていることだけは確かだ。納得していたらこんな場所には来ない。

その謎は多分あの踊りに隠されているに違いない。

「あのう、『大地の踊り』って一体何処の民族の踊りなんですか」

男は刃物で切り裂く目つきで睨み、「似たような踊りは世界中あちこちにあるんや。踊る名人の俺の弟が命名したんや。ただそれだけや」
 弟? この男、弟からあの変な踊りを教わったのだろうか。

「へっー、ダンサーの弟がいるんですか。それは面白いですね」

感心しながら褒めると、異次元の答えが戻ってきた。

「いや、弟は酋長なんや。仲間を沢山引き連れて踊っているぞ」

呼吸が止まる。酋長? この男の弟はアフリカか南米にでも移住しているのだろうか。そうか、分かったぞ。この男、弟に会うためアフリカ旅行に行った時、踊る習慣を身に付けたんだ。それで日本の生活に嫌気が差したのか、退屈しているのか、忘れられず夜な夜な一人で踊り狂っているに違いない。

髭男は笑って答えた。俺は勝手に解釈し、首を何度も上下に振り、「世界は広いですからねぇ。いろんな人間がいますよねぇ。いろんな生き方がありますよねぇ。僕らは固まっちゃって、視野が狭いんですよねぇ」

「おう、全くその通りや……」

髭男は突如、ぱんと手の平を合わせて叩いた。振り向き、意味ありげな細い目で、俺を見て笑う。

「そうや。君、フリーターやろ。アルバイトでもしてくれへんか」

嫌な予感がした。含蓄ある名言を吐いた後だ。ひょっとして現地のアフリカにでも行って来いというのではなかろうか。

「な、何でしょうか。まさか、弟の酋長に会ってきてくれと言うのではないでしょうね」

「君、鋭いやんけ。それに近いな。俺の親父、八十近いけれどもうヤバイねん。弟、勉って言うんやけど、『勉はどこ行ったんや、今何しよるんや』ってうるさくてね。こっちが知りたいよ。もう俺はあいつに五年は会ってないんや。五年前に一緒に踊ってそれっきり。こんな気質の商売に就いていたら会いに行く間もなくてね。あいつ、勉の野郎は電話を使わん生活しとるさかい、一向に連絡が取れんのや。ほんま、どうなっとるんやろ」

俺は丁寧に断った。「アルバイトのお世話は大変有り難いのですが、三ヶ月ぐらい失業保険が貰えると思えます。それに外国旅行は、ちょっと無理じゃないかと思います。パスポートを持てる身分ではありませんし、病気に強い体ではありません。ジャングルで変なウイルスに感染したりしたら全然割に合いませんし……」

髭男は笑って答えた。タバコの吸い殻を遠くに投げる。

「はっは、何言っとるんや。日本や。あいつは鹿児島の奄美諸島の外れにある、小さな島に住んどるんや。そこで映画を作っとるねん。もちろん大阪からは相当遠いけれど、奄美大島の港を経由したら四,五時間で着くやろ。どうや。俺の頼みを聞いてくれたら三十万、いや四十万円出すで。前金で二十万円払うわ」

場所と金額を聞き、俺の目の色が変わった。映画なら不思議ではない。自然と低い声が一オクターブ高くなる。「へー、前金で二十万円ですか。やる気が出ましたよ。ぜひ、お話を聞かせて下さい。……ここじゃあ何でしょうから、僕のアパートで仕事の内容をたっぷりとお聞かせ下さい。このすぐ近くですから」

立ち上がり、洗面器を手にする。爽やかな夜風を浴び気持ちが良い。六月になり月がかわったから幸運が巡ったのかもしれない。俺は髭男を促し、アパートに案内した。