4-c | 蛇のスカート   

4-c

会話は途切れた。船に揺られ、青白い海面を眺めながら過ごす。飛沫を顔に浴び、口元の塩水を嘗める。現実は辛い。島に着いたらその足で奄美大島に再び戻るべきではないか。男が再び船で来るまで無事でいられる保証がない。

不安と波に揺られ、海を見つめたまま時間だけが過ぎていく。

海鳥の姿が太陽と重なった。果てしなく続く紺碧の向こうに、ブロッコリーのような島が姿を現した。「あっ、あれですか!」船が徐々に島の全貌を解き明かして行く。島は切り立った断崖に支えられていた。断崖のすそ一面に波の白い泡が弾けている。 

砂浜を期待していたが、突きつけられたのは過酷な岩肌だった。濃い緑を白っぽい岩が持ち上げて支えている。見とれるに連れ、不安は興味に変わってきた。生い茂った樹木が期待を誘ってくる。眠っている野生の本能を揺り起こす。

コンパスを取り出し、針先を凝視する。船は西南方向に移動している。ということは、あの崖は、島の北部分に位置するのか。

漁船はカーブを描きながら、島に近づいていく。やがて船は島と一定の距離を置いて平行線を辿った。南へ移動している。今がチャンスとばかりに目を凝らす。島の中腹に、森が食いちぎられた感じの場所があり、一面が黒色に塗り込められていた。何だろうか、錯覚かと目を擦り、頭を捻る。さっき見たのは北だから、今通り過ぎているのは島の西になる。漁船は泡を立て南東方向に大きく旋回し、さらに島へ近づいた。

コンパスの針先は震えながら北を指している。島の南に向っているようだ。島の南側はなだらかな斜面になっていた。髭男の記憶通り南はサンゴ礁で、白い砂浜の海岸が浮かび上がってきた。

メモ帳を手に、「釣り針」形の航路を反芻する。最初に見た断崖は北で、住める場所とも思えぬ。通り過ぎる時に観察した西を思い出す。中腹に巨大な炭の塊があったのが脳裏から離れない。大声で男に尋ねる。

「あの黒い塊は何だったんですか」

「何じゃろか。あっちでも住んどるんじゃろ。わしゃ、興味にゃあ」

船はエメラルドに光る珊瑚礁に近づいた。新緑の嵐に、黄色い塊が埋もれていた。今度ははっきりと判断できる。建物がある。不思議な気持ちで見上げる。明るいパステルカラーは目を引く。テント生活で、あそこに三年も寝泊りして、映画撮影をしているのか。

家が三つ見えてきた。潮焼けした男の肩を叩く。指しながら、

「あそこに奇妙な黄色い家が三つありますけど、何で黄色いんですか」

「知らん。ありゃ、黄色いビニールシートを被せ取るんじゃ。恵子さんが好きな色なんじゃないけぇ」

浜辺の丘に、長細いカヌーが置いてある。紺碧の海に魚が飛び跳ねた。陽気な気分になる。電気やガスはなくて不便だが、薪や食料はあるだろう。

漁船は岸に着いた。花崗岩を利用した、即席の船着き場。切り込みの入った黒い大岩が密集し、白波がぶつかっていた。男は船からロープを投げ、岸に括り付ける。時計を見るとまだ三時半。ボストンバックを片手に大岩に飛び移った。シダが震えており、緑を虹色に光らせている。岩伝いに歩き、砂浜に飛び降りる。けがれのない渚が一直線に続いている。白い波が打ち寄せていた。姿を現した貝が砂に潜り込んでいる。

衝撃を受け、砂浜にボストンバックを落とす。珊瑚礁が体を揺らしながら誘っている。足跡がない砂に自分の印を付けて行く。革靴が砂にはまる。秘められた水に、そっと手を差し伸べた。小鳥を撫でているようで愛らしい。浅瀬に腰をつけ泳ぎたくなる。砂の上をマラソンしてみる。足が重かった。裸足なる。こびり付く砂が生暖かい。

海岸にしゃがみ込んだ。砂を握っては海水で手をぬぐう。しばらく指で遊んだ後、視線を広げる。漂流木がぱらぱら渚に持ち上げられていた。太くて赤い蟹が歩いている。捕まえようかと立ち上がる。今度は若葉の大群がざわざわと気を引いてきた。波の飛沫が風に乗って、頬っぺたを愛撫して逃さないようにする。

人生の中で久しく待ちわびていた幻想的な空間。波や鳥の安らぎの音楽が心を落ち着かせてくれる。森に目をやった。パイナップルに似た実をならせているアダンの大群が海に対抗し、緑色の鋭い髪を天高く尖らせていた。ガジュマルの木が生えていた。変幻自在の足を持ち、つるのような気根を垂れ下げている。

俺は無意識のうちに無人島を求めていたのかもしれない。群集に揉まれ、金や時間に追われる都会生活に嫌気が差していた。この澄んだ空気、灼熱の太陽、見慣れぬ植物は、俺の胸を潰してくれる。こんな感動する一瞬を味わうために生きているのだ。

突風が黒い帽子を飛ばした。振り返り、帽子を取りに追い掛けようと後ろに駆けた。すると得体の知れない生き物が帽子の近くに突っ立っていた。

息が止まった。張り裂けんばかりに目を見開いてその生き物に瞳を凝らす。顔は緑色で塗りたくられ、肩口から足首まで芋虫的なマントに包まれていた。頭の天辺。そこではバラの花がきりっと咲いている。鳥の羽だ。羽飾りで冠風にぐるり頭を装飾しているのだ。右手で長い槍を持っている。緑の顔が鋭い目で、こちらを観察している。

腹の底から悲鳴を上げたかった。が、助けがないのは分かっている。これだ。これが蛇島の住民なのだ。赤い羽根をつけている。きっと映画だ。ではインディアンの映画でも撮っている真っ最中なのか。

辺りを嘗め回した。カメラなど何処にも見当たらない。おどおどするが、相手はゆったりと構えている。「やあ」と手を挙げ、馴れ馴れしく一歩、二歩と近づいて来た。

一歩、二歩と浜辺をたじろぐ俺に向かって、威勢のいい声を投げかけてきた。

「よおっ、何しに来たんにゃ。そうか、おみゃーも人間を辞めたんだにゃ」

唾を飲み、神妙に、「ええ、その通りです。それにしても物凄い格好されていますね」

腹の中では現代人を辞める気などなかった。が、郷に入れば郷に従わなければならない。

「俺は森の精霊そのものだにゃ。俺は木であり、草だにゃ。あわっあわっ」

男は慣れた感じで口に手を当て、西部劇の悪役と化した。冗談は格好だけにして欲しい。

この男の合図を聞いたのか、また一人、二人と芋虫がアダンやソテツの覆う森から現れた。その二人は頭の羽飾りは青と白だった。泥だらけの履物を脱ぎ、砂浜を駆け下りる。こっちを無視し、捻り鉢巻きをした船乗りの元へ行った。荷物を運ぶ手伝いをする。

頭が痛くなってきた。あわあわで意思疎通できるのか。さっきのインディアンは依然と目の前に立っている。だがこれが演技でないなら凄いことではないか。

赤羽根の男は疑いの目で俺を見ている。とりあえず依頼された仕事をしよう。開き直り、男に向かって『近藤勉』なる人物に会いたいと切り出した。とたんに人懐っこかった男の態度が一転し、槍を突きつけ威嚇してきた。

「やい、おみゃー、ジャガー族の回し者だにゃ。ジャガー族に用があって来たんだにゃ」

「ジャガー族?何ですか、それは」

「とぼけるにゃ。近藤勉って野郎はなぁ、ジャガー族の酋長だにゃ。おみゃー、あんな畜生と関係があるにゃ」

意味が分からず首を捻った。畜生? あの髭男の兄貴は畜生なのか。だが、ここにいる緑色の化け物も、立派な畜生ではないか。

喉元に向けられた槍は、ナイフが括り付けられている。眩しく光り、今にも首を斬りつけられそうである。仰け反って、慌てふためく。依頼者は「勉が映画監督だ」と言ったが、あれは全くのでたらめだったのか。ここが映画島でないとするなら。ここは一体何の島だ。船乗りとの会話を思い出し、恵子の名を出した。挨拶の偽手紙を持って行くので、本当は勉がいいのだが、恵子もあの髭男の義妹に当たる。別に悪くはないはずだ。

頭にバラを咲かせた男は再び態度を豹変させた。槍の柄を地面に落とし、愛想良く笑う。

「ああ、恵子さん?そりゃ、わしらの酋長だにゃ。会わせてやるからこっちへ来い」

男は踵を返し、砂を蹴る。ぺたぺた森に戻って行く。緑のマントを潮風に靡かせ、奥に誘う。森の切れ目に入ると、だらだらと幅の狭い上り坂が続いている。ボストンバッグから長靴を出して履き、緑のマントを追いかけた。ひねくれた樹木に混じって、紅いハイビスカスが目を引いた。長く突き出ためしべに、青緑の筋が入った黒い蝶が止まっていた。バックを肩にかけ、足元に目を光らせる。

訝しがりながら山道を登る。なぜ勉は駄目で恵子ならOKなんだろう。